作品が特定の時間と場所に存在する唯一無二の存在であるとき、そこには「アウラ」が宿る──20世紀初頭のドイツの哲学者ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品」でそのように論じている。写真や映画は限られた人々のものではなく、複製によって普遍的な価値を持つが、その過程で「アウラ」は失われていく。
ここで注意すべきは、「アウラ」が共通認識ではなく、個々の体験によって形成される個別認識であるという点である。さらに言えば、たとえ唯一無二の存在であっても、それが認識されなければ「アウラ」は存在しない。たとえば、庭に生えている雑草も生命を持つ以上、唯一無二の存在ではある。しかし、僕がそれに何も感じなければ、そこに「アウラ」は生じないのと同じである。
「アウラが存在する」と表現すると、あたかも実体としてそこに何かがあるように響く。しかし「存在する」よりも「感じる」という言葉に置き換えた方が、日本人にはしっくりくるのかもしれない。少しオカルト的ではあるが。
NFT技術をご存じだろうか。
簡単な例を挙げれば、あるデジタルデータ(画像でも音声でもよい)があったとする。それをブロックチェーン技術によって複数のコンピュータで所有者履歴などを管理し、唯一無二のデータとして扱うのがNFTである。(法務局での登記のようなものと考えるとわかりやすい。)ただし、これは「複製できない」ことを意味するわけではない。複製は可能だが、それらには証明が付与されないため、オリジナルと複製品は区別可能である。
では、唯一無二であることで、そのオリジナルデータに「アウラ」を感じるだろうか。
この場合、オリジナルと複製品の違いは、証明の有無にすぎない。そこにあるのは「アウラ」ではなく、希少性という名の資産的価値ではないだろうか。
たとえば、自宅で音楽を聴く場合を考えてみよう。NFT化された音声ファイルと複製された音声ファイルとでは、まったく聴き分けができない。オリジナルだから音が良いわけではなく、複製だから音が劣化するわけでもない。
ベンヤミンは1940年に亡くなっているため、オリジナルと完全に同一のコピーが可能になる時代を想像することはなかっただろう。したがって、ベンヤミン以後の世界では、作品における「アウラ」を再定義する必要があるのではないか。
・丁寧にプリントされ、展示された作品にはアウラが宿る(大量生産は不可能)。
・ストレージ内の画像データには存在せず、モニター表示の作品にも希薄である。
・プリント作品(同じものを再現できない)にはアウラがあるが、ネガには存在しない。
・クラシックカメラは年月を経て唯一無二の存在となりアウラを持つが、新品のカメラには存在しない。
・紙媒体の写真集にはアウラがあるが、電子書籍には存在しない。
・生ビールにはアウラがあるが、缶ビールには存在しない。
・ライブ演奏は一回性ゆえにアウラが宿る。レコードは聴き込むほどに摩耗し唯一無二となるため、そこにアウラが生まれるように思える。PC内のデジタル音声ファイルには存在しないが、再生機器や環境により音が変化するため、再生の瞬間にアウラが立ち現れる。
・ニュース番組などの生放送にはアウラがある。録画放送や編集済み番組には存在しない。
状況によって「アウラ」の有無の捉え方は変化し、非常に興味深い。しかもこれは冒頭で述べたように「個々の体験により形成される個別認識」であるが、同じ文化圏で同じ時代を生きる人々の間では、意外と似たような感覚が共有されるのではないだろうか。
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