八重咲きのユリをいただいたので、いつもの粉引の一輪挿しに挿して撮影した。このシリーズで使うレンズは、ニッコールW210mm F5.6に決めている。絞りはいつもF8前後。画角と被写体までの距離、そしてボケの量が、いまの自分にはちょうどいい。 カメラは、その時の気分でタチハラかリンホフを選ぶ。
改めて考えてみると、「気分」とは何なのだろうか。 理由はいくつも挙げられる。前回はリンホフだったから今日はタチハラにしよう、といった単純な反復もあれば、操作そのものを楽しみたいからリンホフを選ぶこともある。木の軽さや手触り、あるいは金属の冷たさや油の匂いに惹かれることもあるだろう。 だが、そうして並べた理由は、どれも決め手にはならない。むしろ、それらが重なり合い、わずかに揺らぎながら、その時の選択をかたちづくっている。
論理では説明しきれないが、決して偶然でもない。体調や光の具合、直前まで見ていた風景や記憶の断片——そうしたものが身体のどこかに沈殿し、その総体として現れてくるもの。それを、ひとまず「気分」と呼んでいるのかもしれない。いつだって、論理に先立つ「気分」という情調の中で、すでに世界に投げ込まれ、道具と向き合っているのだろう。
今日、選んだのはリンホフだった。八重咲きの柔らかな曲線と、油の匂いを帯びた冷たい金属。それらが、今の自分の内側に静かに噛み合った。 粉引の白とユリの白が溶け合うファインダーの中で、カメラはもはや観察すべき客体ではなく、ハイデガーが言ったように身体の一部——「手近存在」として世界に溶け込んでいく。カメラを操作する指先の微細な振動だけが、僕と世界を繋ぐ確かな手応えのように感じられた。
