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2026年4月4日土曜日

粉引の通奏低音、花の主旋律

 


 外は朝から雨。数日前から咲き始めた桜が満開を迎えているが、雨の中を出歩く気にはなれず、庭先で全ての蕾が開花したクリスマスローズを撮影することにした。
  雨の日は窓から差し込む光が柔らかく、コントロールがしやすい。時間に追われることもなく、撮影に没頭できる。BGMには、バロック音楽のキタローネの楽曲を選んだ。

 粉引(こひき)の一輪挿しに花を活けて写す「粉引に花」シリーズは、もう5年ほど続けている。音楽を聴きながら、ふと思った。この一輪挿しは「通奏低音」であり、その時々に挿す花が「主旋律」なのかもしれない、と。

 愛用の木製大判カメラからは、今日に限っていつもより強く木の香りが漂う。春の暖かさに雨の湿度が加わったせいだろうか。その佇まいを眺めていると、まるで楽器のようだと感じる。

 一年かけて育てたクリスマスローズには、新しい葉が次々と芽吹いている。きっと来年も、また多くの花を咲かせてくれるだろう。
 

2026年3月21日土曜日

アルストロメリア

 


 隣町にアルストロメリアの農家があるせいか、時折、新鮮な切り花が手に入る。

 寒い時期はハウス栽培だろうが、暖かくなれば民家の庭先で咲いているのも見かける。アルストロメリアは花もちが良い。すぐに萎れてしまう心配がないので、じっくりと時間をかけて撮影できるのが魅力だ。色や模様は様々だが、今回の被写体には白基調の個体を選んだ。

 いつもの粉引きの一輪挿しにそっと挿し、コーヒーを淹れるためにお湯を沸かす。

​ 誰もいない午後。コーヒーカップを片手に、光の状態を観察する。

 

 まだ風は冷たいが、南向きの部屋には春の陽射しがたっぷりと差し込んでいた。太陽の熱を蓄えたチェストの上で、花はみるみるうちにその花弁を広げていく。

 「萎れる」心配はしていなかったが、「開花」のスピードまでは誤算だった。状態の変化が、思ったよりもずっと速い。のんびりとコーヒーを啜っている場合ではないことに気づく。

​ 慌てて遮光カーテンを引き、光の量と角度を追い込む。三脚を立て、カメラにレンズを装着。冠布(かんぷ)を被り、薄暗い中でグラウンドグラスを覗き込む。

 ピントを合わせ、スポット測光でハイライトとシャドウの輝度差を計測する。近接撮影による補正と、フィルムの相反則不軌……。頭の中で露出値を算出し、レンズに設定する。

 時間は慌ただしく過ぎていき、静かな部屋の中で僕だけが忙しなく動いている。すべての準備を終え、シャッターを閉じてフィルムを装填する。引き蓋を抜き、レリーズを押し下げてシャッターを開放した。

​ ――7秒間の露光。

​ この7秒間、少なくとも僕だけは、彫像のように動かない。7秒後、再びレリーズを押してシャッターを閉じた。

​ この日の撮影は、これで完了。

​ ふと机の上を見ると、そこには、いつの間にか飲むのを忘れてすっかり冷めてしまったコーヒーが残っていた。


2026年3月5日木曜日

クリスマスローズは走っている

 


 庭先に植えたクリスマスローズが咲き始めた。
 昨年の今頃、静物写真のモチーフにするため、形の異なる三株を買い求め、玄関先で一年かけて育ててきた。ようやく、その花がひらいた。

 日陰を好む植物だからと、わずかな光の差を考えて植え分けた。だが一年後、最も勢いよく葉を広げたのは、皮肉にもいちばん陽当たりのよい場所の株だった。人の配慮など、植物には関わりがないらしい。
 
 撮影のために周到に準備してきたが、花は僕の思惑とは別の時間を生きている。蕾は揃わず、順にほどけ、やがて衰える。一斉に咲いてくれればどれほど楽かと思うが、自然は決して段取りに従わない。
 土門拳は「仏像は走っている」と言った。花もまた、静止しているように見えながら、確かな速度で走り続けている。
 蕾の開き具合を見極める。光の角度を待つ。そのあいだに時は進み、花の相貌もまた移ろう。
 
 ホームセンターで展示用パネルに塗るステインを選び、時間をやり過ごす。準備と逡巡を重ねたのち、ようやくその刻が訪れた。
 ジュラルミンの三脚は冷たく、木製の大判カメラは掌にわずかな温もりを返す。夕刻、窓からの光がゆるやかに衰えていく。

 八重と一重、それぞれの株から、昨夜の雨を含んだ花茎を切る。粉引きの一輪挿しに挿し、形を整える。機材を組み終えてから切るのは、わずかな時間の差で花の均衡が崩れるのを恐れるからだ。

 この日のために一年を費やした。失敗は許されない。

 かつて、プッチーニという品種のカボチャを種から育て、静物として撮ろうとしたことがある。結実せぬまま終わった。翌年、再び種を蒔く気力は残らなかった。
 買ってきた花でも写真は撮れる。だが一年をともに過ごした花には、目に見えない時間が宿る。その時間ごと、写し取りたいと思う。
 
 この日は四枚、シャッターを切った。まだ伸びようとする花茎がある。季節は周期的に雨を降らせ、冬を終わらせ、春へと押し出していく。
 
 そのあいだにも、花は走り続けている。
 僕はそれを追いかける。
 追いながらいつも少しだけ遅れている。

2025年10月28日火曜日

花を撮る時間

 


 秋の訪れとともに、コスモスは日本の風景のあちこちに姿を現す。観賞用に整えられた花畑も、道端にひっそりと咲く一輪も、等しく季節の訪れを告げている。明治の開国とともにこの国に迎え入れられた花は、いつしか日本の秋に欠かせない存在となった。

 同じ時代、同じ海を越えてやってきたセイタカアワダチソウは、今では厄介者として扱われている。僕自身、あの花を部屋に飾ろうとは思えない。同じキク科でありながら、これほどまでに運命が分かれたのは何故だろうか。おそらくは花弁の広がりだ。ある程度の面積を持つ花びらが、光を受けて「パッと咲く」瞬間──その華やぎこそが、心を捉えるのだろう。

 これまで数多くの花を撮影してきた。芍薬の繊細さ、胡蝶蘭の優美さ。しかしコスモスは、あまりにも身近すぎて、長い間レンズを向けることがなかった。

 野の花をたくさん摘んできて、形や大きさを吟味しながら一輪挿しに活ける。繊細な花では許されない自由が、ここにはある。茎を切り、向きを変え、何度でも構図を試すことができる。野趣という名の寛容さが、花との対話を豊かにしてくれる。

 このシリーズを撮影するのは、曇りの日か、直射日光が窓に届かない時間帯と決めている。左側の窓から、レースのカーテンを透過した光が、静かに部屋に満ちる。その柔らかな光は弱く、ISO100、F11で撮るとき、シャッタースピードは2秒ほどになる日もある。フィルムの相反則不軌を考慮すれば、実質的には8秒近い露光時間が必要だ。

その長い時間、僕は息を潜めて待つ。

柔らかく、弱く、しかし確かな光が、いつも優しく花とカメラと僕を包んでいる。

2025年9月8日月曜日

静物写真

 ホームセンターに用事があり、店に入ろうとしたら、入り口の陽当たりが良い場所に草花コーナーがあり、星形の白い花をつけたポッドがいくつも並んでいた。二百円という手に取りやすい価格。ラベルには「矮性キキョウ  アストラホワイト」と記されている。キキョウといえば、青紫の花弁を持つ、野原にひっそりと咲く草花という固定観念があった。白いキキョウの存在に心が揺れる。

 僕の作品「粉引に花」シリーズは、白い花を主題としているため、青紫のキキョウは眼中になかった。それなのに、まさか白いキキョウがあるとは。園芸用に品種改良されたのだろうか。知らないということは、どこかで大切な何かを見落としていることだ。「不知の自覚」が、僕には足りていなかったのである。

 白いキキョウのポッドを買い求めた時、それは風船のような蕾をいくつか従えていた。翌日、午後の光が最も柔らかく差し込む時間を待った。その間に、風船が弾け、花はあっという間に開いていった。

 三脚にカメラを据え、レンズを装着する。花を付けた茎を切り、一輪挿しに挿し、余分な葉を切り揃える。冠布を被り、グラウンドグラス越しに構図を定め、ピントを合わせる。露出計で背景のシャドウと花弁のハイライトをスポット測光し、輝度の幅を確認したら仮の露光値を決定する。その値から、撮影倍率によるベローズファクターやフィルムの相反則不規特性を考慮し、再計算した露光値をカメラに入力する。 そして、フィルムを装填した刹那、あらためて花を見ると、花弁の一部がすでに萎れかけていた。

 室内の気温は三十度ほどある。夏の切り花は、こんなにも早く萎れるものなのかと、僕は愕然とした。その姿に時の残酷さを見た気がした。

 普段、何気なく目にしている植物は、昨日と今日とでほとんど姿を変えることなく存在しているように思える。しかし、いざ作品として向き合おうとすると、驚くほどの速さで変化していく。それは、今までに幾度となく経験してきたことだ。このシャクヤク(#8)も、まさに撮影中に散っていったのである。

 あるいは、僕が変わらないと思い込んでいるのは、白いキキョウの存在に気づかなかったようにただの認識不足で、日頃から気に留めていないからそう見えるだけなのかもしれない。たしかに、気温が高く、切り花にしたことで変化の速度が早まったことは、大きな要因であるに違いない。しかし、それだけではないような気がする。僕の目が捉えきれていない何かがそこにある。

 対象と真摯に向き合うということは、それを契機として、様々なことが見えてくるものだ。作品作りは、正直言って、とても億劫な作業である。面倒くさいと思うこともしばしばある。作品を作ったからといって、何かが劇的に変わるわけでも、特別な利益を得るわけでもない。

 だが、それでも、僕自身に何かしらのフィードバックがあることは確かだ。昨日と同じ今日、今日と同じ明日が連綿と続くわけではない。小さな変化による差異の気づきが、対象の存在認識につながり、僕を次のステージに運んでくれる。

 そして、差異としての経験こそが、日常に埋没することなく、記憶として留めておいてくれる存在となる。非日常的体験は、差異を認識した意識に存在し、フィルムに露光するように、僕の心にも確かな像が焼き付けられていく。