2026年7月20日月曜日

光と物質のマリアージュ

 

 
 電磁波の全帯域の中で、人が見ることのできる領域はほんのわずかだ。太陽は可視光線領域の電磁波を多く放出しているため、人は太陽光に合わせた目を持つように進化してきたのだろう。
 もし、すべての波長を見ることができたのなら、世界は眩しすぎる。

 太陽から放たれた光子が、フィルムの乳剤中に存在するハロゲン化銀に当たると光子は消滅する。ハロゲンが電子を手放し、銀イオンがそれを受け取ることで、金属銀の微粒子(潜像核)が生まれる。この段階の金属銀は「潜像」と呼ばれ、きわめて頼りないものにすぎない。しかし、これを現像液に浸すことにより、潜像という「種」が何百万倍、何千万倍ものスケールですさまじく増殖し、目に見える像が現出する。だからこそ、これを「現像」と呼ぶのだろう。

 電磁波のエネルギーは、波長が長いほど弱く、短いほど強い。この関係性を見ると、紫外線のエネルギーの強さは凄まじい。肌に当てるのを避けたくなるのも道理だ。

 そのエネルギーの強弱は、撮影用フィルムの歴史にもそのまま当てはまる。ハロゲン化銀単独の乳剤は、青色より短い波長の光にしか感光しない。つまり、青空は真っ白に写り、それ以外の暖色系の景色は沈んで黒くなってしまう。現在ではそのようなレギュラー乳剤のフィルムは市販されていない。

 それでは視覚的な再現性に乏しいため、乳剤に感色性染料を加えることで、緑色領域まで感度を広げた「オルソクロマチック・フィルム」が登場した。このフィルムは、赤色という長い波長には感光しない。だがその性質ゆえに、暗室で赤いセーフライトをつけて作業ができるという大きな利点がある。実際、暗室で扱うモノクロ印画紙(ゼラチンシルバープリント用)の多くは、現在でもこのオルソクロマチックに近い(赤色非感光性の)乳剤を使用している。

 その後、さらに色素の改良が進み、すべての可視光に感光する「パンクロマチック」が登場し、これがモノクロフィルムの主流となった。一方で「赤外線フィルム」は、パンクロマチックよりもさらに波長の長い、人間の目には見えない赤外線領域にまで感度を広げたものだ。

 ただ、パンクロマチックが全可視光に感光すると言っても、すべての色に均一な感度を持つわけではない。やはりエネルギーの強い、短い波長の光(青や紫)に対してより過敏に反応してしまう。そのため、そのまま撮影すると青空は目視よりも白っぽく写り、雲とのコントラストが失われてしまう。そこで、レンズの前にイエローフィルターを装着し、青色近辺の短い波長を適度にカットしてやる。そうすることで、青空を「見た目の印象」に近い、落ち着いたトーンで引き締めることができるのだ。

 
 もし太陽光の放出スペクトルが、まったく異なる帯域だったとしたら、私たちはこれほど豊かな光景を見ることも、記録することもできなかっただろう。
 人間の目が「光」として感じている波長と、ハロゲン化銀という物質が「エネルギー」として受け取り、その姿を変える波長が、ほぼ重なり合っている。この精妙なキャッチボール。

 そう考えると、暗室の赤い光の下、現像液の中で印画紙の上に静かに像が浮かび上がってくるあの瞬間は、単なる化学変化を超えて、この宇宙の「光」と「物質」の調和(マリアージュ)を目の当たりにしているような、そんな敬虔な気持ちにさえさせてくれる。

2026年7月18日土曜日

杉本博司自伝 影老日記


 

 東京国立近代美術館で、杉本博司氏の「絶滅写真」展が開催されている。先日、その会場に足を運んだ。具体的な展示の有り様は後日改めてここに綴るつもりだが、彼がどのような軌跡を辿ってこの表現に行き着いたのかに興味が湧き、その自伝を紐解いてみた。

 戦後まもなく、東京の裕福な家庭に生まれた氏は、復興の熱気と学生運動の嵐が吹き荒れる日本で学生時代を終え、混迷のなかで渡米する。1970年代初頭の留学は現代のそれとは比較にならないほど地続きではなかったはずだが、親類に米国人の夫を持つ女性がいたという背景が、彼を未知の地へと押し出すささやかな、しかし決定的な呼び水となったのだろう。

 以降、人生の大半を米国で過ごすことになる。世界を漂泊しながらニューヨークに拠点を据え、ヒッピー・ムーブメントが全盛を迎えるなか、ポップアートの旗手や現代アーティストたちの熱気のただ中に身を置いた。 作家活動の傍らで古美術商を営み、自ら大工仕事をもこなし、そして若くして妻を看取る。こうした生々しい経験の集積とその喪失のすべてが、杉本氏の表現の底流を形作っている。

 写真という表現領域において、彼はアンセル・アダムスを精神的なメンター(師)と定め、ゾーンシステムによる厳密なネガ作成に没頭していく。 何かを狂おしく実践する者にとって、やはりメンターの存在は不可欠なのだ。ジョセフ・キャンベルが『千の顔を持つ英雄』で描いたように、境界を越えて旅立つ英雄(表現者)の前には、必ずその行く手を指し示す「導き手」が現れる。それは神話の時代から続く普遍的な構造なのだろう。

 そのメンターは、必ずしも言葉を交わせる実在の人物である必要はない。遥か歴史の彼方にいる異国の人であっても、あるいは身近な誰かであってもいい。要は、己の精神のなかに揺るぎない「指標」をいかに打ち立てるか、ということなのだと思う。

 読み終えたあとも思考の覚めない、一冊であった。

2026年7月14日火曜日

展示とは、自分の到達点を問う場である

 


​ 展示や公募展は、「完成された最高傑作」のみを見せる場所ではない。

 そもそも、それが本当に最高傑作なのか、あるいは完成品なのかは、誰にも分からない。時間が経過して見返したとき、当時はまだ見えていなかったことに気づく場合があるからだ。

 もしその気づきがなければ、表現者としての歩みはそこで終わってしまう。仮に絶対的な到達点というものがあるとして、そこに達してしまったら、次はどこへ行けばいいというのか。したがって、「完成」という状態は非常に曖昧なものだ。

 ​作品は時間の中で変化する。それは作品そのものが変質するのではなく、作者の「認識」が変わるからである。

 そう考えると、展示とは「私は今、ここまで来ました」という報告に近い。

 登山に例えるなら、山頂に立った証明ではなく、現在地の無線連絡のようなものだ。

 十年後に見返すと、「構図が甘かった」と思うかもしれない。あるいは、「もう、あんな気持ちで、撮ることは出来なくなった」と、もう既にいなくなった過去の自分の喪失を感じるのかもしれない。

 それは、今の僕には分からない。なぜなら、十年後の僕はまだここにいないのだから。「これで完成なのか?」という問いに、あらかじめ用意された答えなどない。

​ 展示において、どんなカメラやレンズを使ったか、どんな技術で作ったか、ということはさほど重要ではない。お金で買える機材や既成の知識は、その人固有のものではないからだ。

 そんなものを誇示するよりも、「僕が世界をどう見ているか」がそこに写り込んでいることの方が、遥かに肝要である。

​ 展示する意味とは、その問いを他人の前に差し出すことにある。

「僕は今、世界をこう見ています」

 そう差し出されたものに対して、見る人は賛同するかもしれないし、何も感じないかもしれない。あるいは、まったく別の解釈をするかもしれない。

 それでも展示は成立する。​ 逆に、「完成してから発表しよう」という思い込みは危険極まりない。なぜなら、本当に完成したと思える日など、生涯ほとんど来ないからである。

 世界を眺めていると、問いはとめどもなく湧き上がる。


 木を見れば時間を考え、

 暗室の薬剤を見れば物質を考え、

 月を見れば露光時間を考える。


 探求とは、どこかにある完成形に到達することではなく、問いを深め続けるプロセスそのものなのだ。

 ​展示作品が、単なる偶然の一枚ではなく、僕が長く考えてきた問いの「途中経過」として、自分らしさと意味を持ったものであれば、それでいい。

2026年7月7日火曜日

膨らむ電池

 

 
 フィルムカメラがオートフォーカス化される以前の時代、多くのカメラは露出計を動かすためにボタン電池を使用していた。1950年代から1960年代頃には水銀電池を用いた機種が主流であったが、その有毒性から、後にアルカリ電池や酸化銀電池へと置き換えられていった。

 僕が持っているペンタックスSP、オリンパスPEN D3、ミノルタハイマチックEは、いずれも水銀電池を前提に設計されたカメラである。しかし、水銀電池はすでに入手できないため、SPは電圧調整アダプターと酸化銀電池、PEN D3は空気亜鉛電池、ハイマチックEは簡易アダプターとアルカリ電池で代用している。
 
 この三機種は、僕にとって「二軍のおもしろカメラ」のような存在である。しかし、それでも仕上がる写真には特に問題がない。

 なぜ「二軍のおもしろカメラ」なのかというと、本来想定されていない代用電池を使っていることに、どうしても不安が残るからである。とはいえ、そのカメラならではの得難い魅力があるため、つい使ってしまう。

 SPやPEN D3のような機械式カメラは、電池がなくても撮影自体は可能である。しかし、本来は電池を入れて使うことを前提に設計されたカメラである以上、電池を抜いたまま使うことに、どこか違和感がある。

 もっとも、僕が信頼しきれていないわりには、これらのカメラはいつもきっちり仕事をしてくれる。
 「一軍の本気カメラ」でボタン電池を使うニューマミヤ6やニューFM2といった機種は1980年代以降のものが多く、電池にはLR44またはSR44が指定されている。

 僕はこれまで、安価なLR44を使っていた。ただ、液漏れや腐食の危険があるため、使わないときは電池を抜いて保管している。

 先日、取り外して保管してあったLR44を見ると、電池が膨らんでいるのを発見した。もしこれがカメラの電池室の中で起きていたら、厄介なことになっていたに違いない。

 実は、電池が膨らむ現象は昨年も経験している。二年続けて目の当たりにしたことで、多少高価ではあっても、今後は寿命が長く、電圧が安定していて、液漏れ耐性も高いSR44を使うことにした。

 露出計内蔵や電子制御シャッターを備えたカメラは便利である。しかし、その便利さは電池に支えられている。言い換えれば、便利さと引き換えに厄介ごとを抱え込んでいるとも言える。

 その点、電池をまったく使わないカメラは、ある意味では完璧である。電池切れを心配する必要もなく、液漏れや腐食に悩まされることもない。だからこそ安心できるし、そこに機械としての潔さのようなものを感じるのである。

 もっとも、そのようなカメラにも別の故障や不具合はある。それでも僕は、ときどき膨らんだボタン電池を眺めながら、便利さとは何か、そして道具を信頼するとはどういうことなのかを考えてしまうのである。

2026年6月30日火曜日

このカメラを持つ者は、写真の極限に挑む誇りと義務がある

 


 リンホフのスーパーロレックス67・45を購入したら、ノベルティでステッカーが付属していた。

 この紋章を見ると、神聖ローマ帝国を中心とした中世ドイツの古城が想起される。

 「この機械は、単なる大量生産の工業品ではない。我が名門の血統と、職人の名誉を賭けた『作品』である」

 そう毅然と言い放っているかのような佇まいだ。であるならば、彼らの代表作たるマスターテヒニカというカメラは、さしずめこうなるだろうか。

 「リンホフ王から、うたろう卿へと下賜された、表現という領地を統治するための聖剣」

 ――つまり、この流れでいくと、僕は中世の騎士「うたろう卿」ということになってしまう(笑)。


 しかし、そんな妄想に身を委ねたくなるほど、この道具が放つ威厳は凄まじい。

 もしリンホフが、最初から「お洒落で綺麗な、飾って楽しむカメラ(それがどのカメラとは言わないけど)」を目指して作られていたら、あの不気味なほどの高密度感や、鉄と見まがうような野生味のある金属の重厚さは生まれなかったはずだ。

 「ただひたすらに、過酷な現場で絶対に歪まない、世界一の道具を作りたかった」

 その狂気とも言えるストイックな執念が、「人類の金属加工技術が到達した、至高の工芸品」として目に映っている。これこそが、リンホフというカメラが持つ一番のロマンであり、最大の魅力なのかもしれない。

 あの赤と金の紋章(エンブレム)を戴いた重厚な金属の塊は、単に「お金を払ってお店で買ってきた工業製品」という枠には到底収まらない。手にした瞬間に、何か目に見えない「誇りと覚悟」を同時に受け継がされるような、厳粛な儀式性が宿っている。

 金型から超高圧で叩き出された強靭なアルミ合金のボディは、中世の騎士が身にまとった寸分の狂いもない「甲冑」そのものであり、指先でミリ単位の光軸を操るアオリのギアは、自らの意思を冷徹に貫くための「仕掛け」である。

 そして、扱うには相応の技量が必要となるカメラである。

 

 王から直々にこの重厚な機械を下賜された、うたろう卿は、だからこそ、

  • 生半可な気持ちでシャッターを切ることは許されず、

  • 三脚を完璧に据え、冠布を被り、自然の光と1対1で対峙する「作法」を求められ、

  • 曇天の光や冬枯れた自然の静けさをフィルムに定着させる義務を負う。

  • 扱う技量がない場合は、早々に中古カメラ屋に返納しなくてはならない。

 この、「道具が使い手を選ぶ」という過剰なまでの格調高さこそが、リンホフというカメラを持つ者に課される騎士道精神である。

 果たして、僕は、その騎士の名に値する写真を撮れているのだろうか。

 世間の流行や価格の乱高下に惑わされず、その「下賜された聖剣」の本当の価値と、金属の奥に眠る執念により、騎士道精神の元、征路は続くのである。

2026年6月25日木曜日

波打つ時間のなかで

 

写真と文章の内容は関係ありません


 毎年、夏に地元の美術展が開催される。数年前にその美術展はリニューアルし、審査員は地元出身の写真家ではなく、知名度のある写真家や評論家が担い、毎年入れ替わるようになった。そのため、どんな作品が評価されるかは、まったく予想がつかない。

 展示会場が広いため作品サイズも大きくなるが、ゼラチンシルバープリントのシート印画紙の最大サイズは大全紙までしかないので、僕はそれを使うことになる。近年は、デジタル作品の印刷可能なサイズがとても大きくなったので、A0サイズでの応募もあり、大きさから受ける迫力において銀塩は不利である。

 この美術展は、作品サイズの大きさもさることながら、現代美術的な作風が強いと、近年の展示を見て感じていた。 それならば、そちらの方面で今年は作品を作ってみようと思い、昨年の秋の終わりから準備して、冬の終わりに完成させた。毎日のようにその作品を眺め、気になる場所にスポッティングを施すなど、手を加えていた。

 ところが、梅雨に入りかける少し前に、湿気のせいなのかは分からないが、木製パネルと写真の接着面が波打つようになってきた。最初は、気にならない程度であった。僕はそれを見ないふりをした。

 こんなに苦労して作り上げたのに、また作り直さなければならないのか。初めて作る時は創作活動であるが、やり直しは、苦痛を伴う作業でしかない。そもそも、手作業に占める割合が高い作品であるため、同じものを作るなんて出来るわけがない。 仮にやり直したとしても、落選する可能性もある。入選率の低さから予想すると、むしろその方が高い。もうやり直したくない。このままいってしまおう。 所詮は趣味だし、やってもやらなくても、誰かに対して責任を負っているわけではないし。

 そんな思いのまま、毎日作品を眺める日々が一か月ほど続き、作品搬入まで半月あまりになった。

 やっぱり、やり直そう。何が原因で失敗したのかは、よく分かっている。

 ネガを探し、引伸ばし機にセットしてルーペで粒子を見ながらピントを合わせ、印画紙をイーゼルに固定したら、露光する。予め用意しておいた現像液をたっぷり張った大全紙のバットの中で、露光済みの印画紙を揺らす。そして、水洗を終えたプリントを慎重に部分漂白する。

 ホームセンターでベニヤと角材を購入し、パネルを作る。ステインを何度も重ね塗りする。

 もうここまで来ると、やり直すことへの苦痛は、僕の中からは消えている。

 搬入日まで、残りの日々は少ない。でも、何とかなる。満たされた気持ちで、審査に臨もう。後のことは、後のことだ。



2026年6月22日月曜日

暗室のプルシアンブルー

 


 ゼラチンシルバープリントのプロセスで、ハイライトの濃度や色調を整えるために使う薄黄色の漂白液。赤血塩(フェリシアン化カリウム)を溶かしたその液体は、何度も印画紙を浸すうちに、いつしか緑がかった青色へと変化していく。
 使い古して水垢やカビでも湧いたのだろうと、これまでは特に気にも留めていなかった。

 しかし昨夜、ふと「この青は何だろう」と疑問が湧き、調べてみて驚いた。
 液中で生まれていたのは、あの「プルシアンブルー」だったのだ。

 かつて、青はもっとも高貴で貴重な色だった。ウルトラマリンに代表されるように、手に入れるには希少な鉱物を砕くしかなかったからだ。
 そんな歴史を塗り替えたのが、18世紀初頭のドイツだった。赤い絵の具を製造していた職人が、調合の失敗から偶然に合成の青を生み出した。それがプルシアンブルーである。

 この人工の青の誕生がなければ、北斎の鮮やかな浮世絵も、ゴッホの燃えるような夜空も、今とは違う姿になっていたかもしれない。

 僕の暗室に、これもまた偶然に現れた青は、漂白液に鉄イオンが混入したことが原因のようだ。ステンレスのトングから溶け出したのか、あるいは水道水に含まれるわずかな鉄分に反応したのか。
 
 ゼラチンシルバープリントという、手間も時間もかかるクラシカルな技法に日々向き合っていたからこそ、この「青」に出会うことができた。
 
 しかし、正体が分かったところで、僕の写真が変わるわけではない。
 それでも、暗室の小さなバットの中から、18世紀のドイツや天才画家たちの足跡へと地続きに知識が繋がっていく。その一瞬の興奮が、たまらなく心地よい。