写真を紙に焼き付ける。そこに宿った像をどう愛でるかによって、その作品の軌跡は形を変えていく。
僕にとって紙焼きの目的は、自分のための「時を超える標本」を作ることだ。手に馴染む四つ切ほどの大きさが心地いい。暗室でバライタ印画紙に銀の粒子を浮かび上がらせ、硫化調色を施す。そうして出来上がった一枚は、幾年月にも耐えうる作品となる。
もし幸運な機会が訪れ、その写真を展示という名の旅をさせる日が来たのなら、 無酸性の三角コーナーでマットに添え、額の裏板で優しく圧をかけてやる。それだけで、波打っていた紙は息を整え、平らな表情を見せてくれる。展示という短い旅が終われば、またアルバムの静かな闇へと還せばいい。
少なくとも僕は、その旅の準備で裏打ちはしたくない。ドライマウントでマットボードに強く圧着されたプリントは、もう旅立つ前の姿には戻れない。半永久の時を望むのであれば、余計な手は加えず、ただそのまま置いておくのが一番なのだ。
──そうは言っても、ただ一過性の展示だけを目的に大全紙を使わなくてはならない時もある。
作品内容によっては額を使えず、パネルやマットへ固定するために糊やテープを使い、印画紙にどうしても負担をかけてしまう。大全紙という大きさは、僕が手元で静かに愛でるには少し大袈裟すぎるのだ。
どれほど精魂を傾け、その一瞬に命を吹き込んだとしても、僕にとってそれは展示を終えれば役目を果たす「短命な花」に過ぎない。
消耗品、と呼ぶのは少し寂しい。 そう、あれはまるで「生もの」なのだ。展示室の眩い光の中にいる間だけその命を咲かせ、楽しむためのもの。過ぎ去ったあとは、記憶の中の残像だけが静かに揺らめいている。





