うたろう寫眞
Monochrome Anthology - 暗室系写真サイト - のブログ
2026年7月7日火曜日
膨らむ電池
2026年6月30日火曜日
このカメラを持つ者は、写真の極限に挑む誇りと義務がある
リンホフのスーパーロレックス67・45を購入したら、ノベルティでステッカーが付属していた。
この紋章を見ると、神聖ローマ帝国を中心とした中世ドイツの古城が想起される。
「この機械は、単なる大量生産の工業品ではない。我が名門の血統と、職人の名誉を賭けた『作品』である」
そう毅然と言い放っているかのような佇まいだ。であるならば、彼らの代表作たるマスターテヒニカというカメラは、さしずめこうなるだろうか。
「リンホフ王から、うたろう卿へと下賜された、表現という領地を統治するための聖剣」
――つまり、この流れでいくと、僕は中世の騎士「うたろう卿」ということになってしまう(笑)。
しかし、そんな妄想に身を委ねたくなるほど、この道具が放つ威厳は凄まじい。
もしリンホフが、最初から「お洒落で綺麗な、飾って楽しむカメラ(それがどのカメラとは言わないけど)」を目指して作られていたら、あの不気味なほどの高密度感や、鉄と見まがうような野生味のある金属の重厚さは生まれなかったはずだ。
「ただひたすらに、過酷な現場で絶対に歪まない、世界一の道具を作りたかった」
その狂気とも言えるストイックな執念が、「人類の金属加工技術が到達した、至高の工芸品」として目に映っている。これこそが、リンホフというカメラが持つ一番のロマンであり、最大の魅力なのかもしれない。
あの赤と金の紋章(エンブレム)を戴いた重厚な金属の塊は、単に「お金を払ってお店で買ってきた工業製品」という枠には到底収まらない。手にした瞬間に、何か目に見えない「誇りと覚悟」を同時に受け継がされるような、厳粛な儀式性が宿っている。
金型から超高圧で叩き出された強靭なアルミ合金のボディは、中世の騎士が身にまとった寸分の狂いもない「甲冑」そのものであり、指先でミリ単位の光軸を操るアオリのギアは、自らの意思を冷徹に貫くための「仕掛け」である。
そして、扱うには相応の技量が必要となるカメラである。
王から直々にこの重厚な機械を下賜された、うたろう卿は、だからこそ、
生半可な気持ちでシャッターを切ることは許されず、
三脚を完璧に据え、冠布を被り、自然の光と1対1で対峙する「作法」を求められ、
曇天の光や冬枯れた自然の静けさをフィルムに定着させる義務を負う。
扱う技量がない場合は、早々に中古カメラ屋に返納しなくてはならない。
この、「道具が使い手を選ぶ」という過剰なまでの格調高さこそが、リンホフというカメラを持つ者に課される騎士道精神である。
果たして、僕は、その騎士の名に値する写真を撮れているのだろうか。
世間の流行や価格の乱高下に惑わされず、その「下賜された聖剣」の本当の価値と、金属の奥に眠る執念により、騎士道精神の元、征路は続くのである。
2026年6月25日木曜日
波打つ時間のなかで
毎年、夏に地元の美術展が開催される。数年前にその美術展はリニューアルし、審査員は地元出身の写真家ではなく、知名度のある写真家や評論家が担い、毎年入れ替わるようになった。そのため、どんな作品が評価されるかは、まったく予想がつかない。
展示会場が広いため作品サイズも大きくなるが、ゼラチンシルバープリントのシート印画紙の最大サイズは大全紙までしかないので、僕はそれを使うことになる。近年は、デジタル作品の印刷可能なサイズがとても大きくなったので、A0サイズでの応募もあり、大きさから受ける迫力において銀塩は不利である。
この美術展は、作品サイズの大きさもさることながら、現代美術的な作風が強いと、近年の展示を見て感じていた。 それならば、そちらの方面で今年は作品を作ってみようと思い、昨年の秋の終わりから準備して、冬の終わりに完成させた。毎日のようにその作品を眺め、気になる場所にスポッティングを施すなど、手を加えていた。
ところが、梅雨に入りかける少し前に、湿気のせいなのかは分からないが、木製パネルと写真の接着面が波打つようになってきた。最初は、気にならない程度であった。僕はそれを見ないふりをした。
こんなに苦労して作り上げたのに、また作り直さなければならないのか。初めて作る時は創作活動であるが、やり直しは、苦痛を伴う作業でしかない。そもそも、手作業に占める割合が高い作品であるため、同じものを作るなんて出来るわけがない。 仮にやり直したとしても、落選する可能性もある。入選率の低さから予想すると、むしろその方が高い。もうやり直したくない。このままいってしまおう。 所詮は趣味だし、やってもやらなくても、誰かに対して責任を負っているわけではないし。
そんな思いのまま、毎日作品を眺める日々が一か月ほど続き、作品搬入まで半月あまりになった。
やっぱり、やり直そう。何が原因で失敗したのかは、よく分かっている。
ネガを探し、引伸ばし機にセットしてルーペで粒子を見ながらピントを合わせ、印画紙をイーゼルに固定したら、露光する。予め用意しておいた現像液をたっぷり張った大全紙のバットの中で、露光済みの印画紙を揺らす。そして、水洗を終えたプリントを慎重に部分漂白する。
ホームセンターでベニヤと角材を購入し、パネルを作る。ステインを何度も重ね塗りする。
もうここまで来ると、やり直すことへの苦痛は、僕の中からは消えている。
搬入日まで、残りの日々は少ない。でも、何とかなる。満たされた気持ちで、審査に臨もう。後のことは、後のことだ。
2026年6月22日月曜日
暗室のプルシアンブルー
2026年6月16日火曜日
八重の曲線
八重咲きのユリをいただいたので、いつもの粉引の一輪挿しに挿して撮影した。このシリーズで使うレンズは、ニッコールW210mm F5.6に決めている。絞りはいつもF8前後。画角と被写体までの距離、そしてボケの量が、いまの自分にはちょうどいい。 カメラは、その時の気分でタチハラかリンホフを選ぶ。
改めて考えてみると、「気分」とは何なのだろうか。 理由はいくつも挙げられる。前回はリンホフだったから今日はタチハラにしよう、といった単純な反復もあれば、操作そのものを楽しみたいからリンホフを選ぶこともある。木の軽さや手触り、あるいは金属の冷たさや油の匂いに惹かれることもあるだろう。 だが、そうして並べた理由は、どれも決め手にはならない。むしろ、それらが重なり合い、わずかに揺らぎながら、その時の選択をかたちづくっている。
論理では説明しきれないが、決して偶然でもない。体調や光の具合、直前まで見ていた風景や記憶の断片——そうしたものが身体のどこかに沈殿し、その総体として現れてくるもの。それを、ひとまず「気分」と呼んでいるのかもしれない。いつだって、論理に先立つ「気分」という情調の中で、すでに世界に投げ込まれ、道具と向き合っているのだろう。
今日、選んだのはリンホフだった。八重咲きの柔らかな曲線と、油の匂いを帯びた冷たい金属。それらが、今の自分の内側に静かに噛み合った。 粉引の白とユリの白が溶け合うファインダーの中で、カメラはもはや観察すべき客体ではなく、ハイデガーが言ったように身体の一部——「手近存在」として世界に溶け込んでいく。カメラを操作する指先の微細な振動だけが、僕と世界を繋ぐ確かな手応えのように感じられた。
2026年6月8日月曜日
エンターテイメントとしての発色現像プリント
ヤマボウシの静物写真を撮りたくなったので、3年ほど前に苗木を買ってきて庭先に植えた。昨年は一輪も咲かなかったが、今年は肥料と水やりをまめに行ったせいか、少し花がついた。
いつもどおり、大判カメラで撮影した後、デジタルカメラでも撮影しておいた。デジタルカメラでの画像は、SNSに投稿したら役目を終える。
しかし、思い返してみれば、キスデジタルX3を買ってから17年ほど経つが、このカメラで撮影したものをちゃんとプリントしたことがない。ふと、カラーで引き伸ばしてみたいと思った。もちろん、僕の本領はゼラチンシルバープリントなので、それは「遊び」としてだ。
現状、写真の紙焼き(プリント)には、代表的なプロセスとして次のものがある。
1 ネガ → 光学引き伸ばし → 銀塩プリント(発色現像、ゼラチンシルバー)
2 ネガ → スキャン → 銀塩プリント(発色現像)
3 デジカメ → 銀塩プリント(発色現像)
4 ネガ → スキャン → インクジェット
5 デジカメ → インクジェット
※技法的に、発色現像はカラー、ゼラチンシルバーはモノクローム
デジカメで撮影した場合、選択肢は3か5になる。デジタルデータからデジタルネガを作成し、1のプロセスを通ることもできるが、まあ、今回はそこまで深く立ち入らないので3を選んだ。
3を選ぶか、5を選ぶか。おそらく5の方が「本気度」が高いのではないだろうか。デジカメで撮影してインクジェットで印刷するというのは、現代において最も高品質で耐久性があるプリントを作成できる手法であり、相応に高価でもある。
僕が3を選んだのは、冒頭にも書いたように今回の試みが「遊び」であるからと、久しぶりに発色現像方式の印画紙を手に取って見てみたいと思ったからだ。
そんなわけで、少しだけ明るめに調整し、RAW現像したデータをSDカードに保存して、近所のカメラのキタムラに行った。
カメラ店に行くのはかなり久しぶりである。どうやって注文したら良いのか分からずにいると、店員にプリント注文用の端末を案内された。注文の過程で「無補正」と「お任せ補正」があり、どちらにしようかかなり悩んだが、せっかく自分で現像したデータなので、最終的に「無補正」にした。
10日ほどして受け取りに行き、仕上がりを確認すると、ちょっと暗めではあるが満足のいくレベルであった。これがいつものゼラチンシルバープリントであるなら再プリント(焼き直し)していたかもしれないが、今回はそこまでやるつもりはない。そうしたお手軽さを求めて、このサービスを選んだのだ。
印画紙の裏を見ると、富士フイルム製品のようだった。少し前に富士フイルムはシート印画紙の販売を終了してしまったが、ロール印画紙の供給はまだ続けている。同社もノーリツ鋼機も、ミニラボ機をまだ生産ラインに残しているのだ。
各店舗にミニラボ機を配置するのは需要面から難しいのだろうが、ラボへ集中一元化し、ユーザー側も仕上がりまでの日数を許容できるのであれば、この価格で発色現像プリントを楽しめる環境は、まだ当分は維持されるのではないだろうか。
フィルムカメラは現像結果を見るまで分からないため、その「待つ期間」がワクワクするとよく言われる。しかし今回の経験から、RAW現像データ通りに仕上がるか分からない発色現像プリントも、納品を待つ間の心持ちは同じではないかと思えた。
もっとも、僕の場合はいつも「ワクワク」ではなく、「ハラハラ(心配)」なのだが。
2026年6月4日木曜日
開拓者の木
水中から生えている木の大半は、このアカメヤナギではないだろうか。成長が早く、生命力が強いこの木は、他の植物に先駆けていち早く根付き、森林形成の第一歩を担う「先駆植物(パイオニア植物)」である。
開拓者であるがゆえに、この木には試練が待ち受けている。嵐、雪、雷、虫害、波。それらの災厄に耐え切れず、倒れてしまう木もある。しかし、倒れてもなお、生を諦めることはない。倒れたまま、別の方向に枝や根を伸ばし、成長し続けていく。
20年ほど前だろうか。湖岸で撮影しているうちに、沖に浮かぶように生えている開拓者たちを、間近で見たいと思い始めた。まさか泳いでいくわけにもいかず、水上を散歩できる乗り物を探すなかで、カヤックに行き着いた。それから10年ほどは、琵琶湖の湖岸を漕いで回った。
その間、フィルムカメラを持っていた手は、パドルを握る手に変わっていた。
「事物をよくみる」という行為を実現するための道具が、カメラからカヤックに移った時期だった。
水中から生えているように見える木の根元は、水深こそ浅いが、常に水に浸かっているため地中深くに根を伸ばさず地表に沿っている。それゆえ、波で周囲の土を洗われ、強風が吹き付けると、倒れやすいのだろう。
カヤックを降りて、開拓者の周りを歩いてみると、その見かけ上の島は根だけで形成されているようで、ふわふわとして、まことに踏み応えがない。
ただそれだけを確認するために、湖岸を嘗めるように漕ぎまわった。
今は再び、カメラを使い、湖岸から遠くの開拓者たちをみている。やっていることは、元に戻ったわけだ。しかし、開拓者に触れ、認識の枠を強く揺さぶられた僕は、もう以前のままではない。





