
うたろう寫眞
Monochrome Anthology - 暗室系写真サイト - のブログ
2026年10月16日金曜日
写真があってよかった。森山大道伝

2026年10月8日木曜日
月下の狸
夕方に仕事を終え、一目散に琵琶湖の西側へ車を走らせた。今年の中秋の名月は9月25日だったが、あいにく天候に恵まれず、一週間遅れの10月2日に観月と撮影をすることにした。
この日は、21時25分に北東の山の端から月が昇るはずだった。20時に目的の駐車場に到着したが、北東の空は、雲で覆われていた。軽く調理を済ませて、夕食をとっていると、その間に山の向こう側に雲は消え去り、多くの星が見えるようになった。
「ここではこんなに多くの星が見えるのか」と驚かされる。
この浜に月光の撮影で訪れるのは今回で三度目になるが、これでうまくいくとはまったく思っていない。
「何か撮れるまで、何回でも何年でもかけて来てやるさ」くらいの気持ちでいる。
なぜなら、撮影できるチャンスは年に何度もないのだから。適切な露光値や現像量も依然として未確定のままだ。
どの画角で撮影すればいいのか、月を見てみないと分からないので、ひとまずリンホフに210mmをセットして、北東方面をじっと眺める。対岸の木之本辺りの街の灯りの向こうの山の端が、ぼんやりと明るくなり始める。すると、月の一部が現れたかと思うと、みるみるうちに月全体が見え、山の端から離れていく。
そして同時に、湖面には月光の道が出現する。この日、風速は3メートルほどだろうか。ゆらゆらと揺れる湖面と、月の高度に応じて、道の形状は変化していく。
慌ててレンズを300mmに交換し、何枚か撮影した後、500mmに交換した。
21時30分から撮影を始めて、2時間ほど撮影に没頭していた。露出計は役に立たない。そこでデジタルカメラで試し撮りをし、その結果を参考に露光値を決める。さらにフィルム(ケントメアパン200)の相反則不軌特性を考慮すると露光時間は7分から40分ほどになる。そうして5枚ほどを撮り終えることができた。
露光中、浜辺から湖面に輝く月光の道を見ていると、タヌキが現れた。
「まさか、この月光の道を歩いて対岸まで行くつもりか!?」
と思ったのだが、そんなことができるはずもなく、僕の方を何度も見てから渚沿いを足早に走り去っていった。撮影中の構図の中には、タヌキに反射した月の光がフィルムに露光されているはずなのだが、ほかの光に紛れて痕跡は残らない。
琵琶湖畔で、月が出てから数時間、ずっと見ているなんて、かなりの暇人である。しかし、目まぐるしく変化する月光の道はおもしろく、実はこちらは大変忙しい。
月光の道が閉じたら、音楽を聴いたり読書をして夜を過ごそうと思ったが、疲れてすぐに横になってしまった。
僕が眠っている間も、月は湖面を照らしている。もしかしたら、僕が見ていない間に、先ほどのタヌキは、対岸に向かって月光の道を歩いているのかもしれない。
明日は5時に起きて、日の出前の湖面を撮ろう。
2026年10月2日金曜日
時を経たカメラ
このカメラ、オリンパス・クロームシックスVAというらしい。
中判のマルチフォーマット(6×4.5、6×6)、目測式のスプリングカメラである。
僕が小学生だった頃(1970年代)、うちのタンスの奥に、革ケースに包まれたこのカメラを見つけたのが、僕とこのカメラとの最初の出会いである。
当時、父親が使っていたカメラは、すでにオリンパスペンFTだったため、うちではその頃には、とっくに現役を退いていたようだ。
それから30年ほど経った2000年頃、うちにこのカメラがあったことを思い出した。趣味でカメラのレストアをしている知人に動くようにしてもらい、何本か撮影してみた。
この頃には自宅で暗室作業ができるようになっていたから、そんな気になったのだろう。
元の革ケースは、経年による損傷が著しく、捨ててしまった。
このカメラのズイコーレンズは、経年変化によってくもることが宿命のようで、うちのカメラも例外ではなかった。
そのため、ボンヤリとした像しか結ばない。
「なんだ、こんなボヤけた写真しか撮れないのなら、使う価値がないな」
そう思い、父親に返却すると、今度は靴箱の隅がこのカメラの居場所になった。
でも、ずっと思っていた。
またいつか、使ってみたいと。
それから四半世紀が経過した、現在。
このカメラの使いにくさの一つに、アイレット(ストラップ通し)がないため、ストラップを装着できないという点がある。
ある日、何気なくネットショップでカメラケースを見ていたら、なんとオリンパス・クロームシックス用の互換革ケースが販売されているのを発見した。
今さら、こんな古いカメラの革ケースを新たに制作して商売になるのだろうか?と思いながら、よく見ると、ストラップを吊り下げるためのアイレットも装備されている。
もしかして、時節到来か!!
こんな古いカメラのケースを、いつまでも作り続けてくれるとは限らない。
もしカメラが撮影できる状態に戻るのであれば、このケースを買って使ってみよう。
ボヤけた像は、そのまま楽しめばいいのだから。
しかし、時間が流れ過ぎたせいか、レンズは汚れ、シャッターは粘り、蛇腹には穴が空いていた。
そして、かつてカメラをレストアしてくれた知人は、もうこの世にはいない。
メンテナンスをしてくれそうな近所の修理屋さんをネットで見付けて訪問し相談したが、古過ぎてあまり修理経験がなく、そして、
「同じものが数千円で買えるよ」
と言われ、やんわり断られてしまった。
しかし、そういう問題ではないのだ。
仮に「同じもの」を入手したとしても、それは、うちに70年近く存在しているカメラではない。
今、円安のこともあり、作りの良い日本の1960年代から1980年代くらいのカメラが人気らしい。
近所の修理屋さんは輸出ビジネスで忙しいようで、それよりも古く、操作や修理の難易度が高い、儲けの薄い厄介なカメラを敬遠したのだろう。
どうしたものかな、と思った。
革ケースを入手し、かつカメラのメンテナンスも完了させる。
これが今回の計画である。
そうでなければ使う気になれず、カメラの居場所も、靴箱の隅のままだ。
こうなったら、大阪のいつもの修理屋さんで、直接相談するしかない。
そう思い、まだ暑さの残る9月の終わりに、南船場へ向かった。
これまで、いろんなカメラのメンテナンスでお世話になった**「鈴木特殊カメラ」**さんの扉を、久しぶりに叩いた。
遠方のため、滅多に来られないのだが、店主の方は僕のことを覚えていてくださった。
知人であるお店の常連さんの噂話をしつつ修理の相談をすると、どうやら納得価格でメンテナンスすることができるらしい。
ただ、数か月待ちとのことだった。
僕は安堵するとともに、革ケースをネットショップでオーダーした。
年明け、雪の降る頃には、カメラにフィルムを装填し、ボヤけた写真を撮影できるだろうか。
そして、普段の保管場所を、靴箱の隅から防湿庫へと移そう。
祖父、父親、亡くなった知人、僕。
次にこのカメラを手にするのは、誰だろうか。
2026年9月24日木曜日
カメラは心の浄化装置なのかもしれない
今回は、唯識の教理を軸に、カントの認識論、バルトの「ストゥディウム/プンクトゥム」、シュルレアリスムの表現手法を接続し、写真との関係について考えてみたい。
まず、唯識の思想を紐解くにあたり、心(認識)には八つの層(八識)が存在していることを理解する必要がある。
| 識の名称 | 役割と特徴 |
| 前五識(第一識〜第五識) | 眼・耳・鼻・舌・身の5つの感覚器官による認識(見る、聴く、味わう等)。いわゆる五感。 |
| 第六識(意識) | 思考、判断、記憶、感情など、日常的に「考えている」自覚的な心。 |
| 第七識(末那識・まなしき) | 潜在意識の浅い層。「執着する心」。自我意識の根源であり、「これが自分だ」と無意識に自己執着し続ける心。 |
| 第八識(阿頼耶識・あらやしき) | 根本となる超・潜在意識。あらゆる経験や行動の記憶(種子・しゅじ)が蓄積される巨大なデータベース。 |
<例:カレーライスの認識>
前五識:目の前にカレーライスという物体(視覚・嗅覚情報)がある。
第八識(阿頼耶識):過去に食べたカレーライスの体験や記憶(種子)が参照される。
第七識(末那識):過去の蓄積に基づき、「この具材や香りは自分好みだ」と無意識に自己との関係性を判定・執着する。
第六識(意識):「美味しそうだから食べたい」と自覚的に思考・判断する。

前五識(五感)は感覚器官であり、第六識(意識)は認識の結果に過ぎない。今回焦点を当てるべきは、潜在意識下で働く第七識(末那識)と第八識(阿頼耶識)のメカニズムである。
第八識(阿頼耶識)の状態(どのような記憶の種子が溜まっているか)によって、第七識(末那識)が事物に対して、どのような自我による偏った解釈を行うかが決まる。したがって、第八識(阿頼耶識)を清浄に保つことが極めて重要となる。ここでの「清浄」とは倫理的な善悪ではなく、心の認識にノイズや認知の歪みを生ませない状態を指す。第八識(阿頼耶識)に負の種子が過剰に溜まると、認知的ゆがみが生じ、人格の破綻や精神的な不調にもつながりかねない。
カントの「認識の枠」との接続
この「認識の枠」こそ、唯識における第八識(阿頼耶識)と第七識(末那識)の構造に重なる。
人間は、データベースである第八識(阿頼耶識)に存在しない情報や概念は参照できないため、そもそも事物として認識することができないのである。
(参考 形而上のレンズ交換)
バルトの「ストゥディウム・プンクトゥム」との接続
ストゥディウム:社会的・言語的に共有可能な情報や記号(コード)であり、唯識では表層の「第六識(意識)」に該当する。
プンクトゥム:言葉を超えて鑑賞者の心に突き刺さる強烈なディテールであり、自我や潜在意識の「第七識(末那識)」を突如として揺さぶる現象である。
(参考 明るい部屋)
シュルレアリスムとスナップ写真
日常の動作——例えば車の運転や徒歩移動——を無意識に行えるのは、繰り返しにより獲得された「運動の種子」が第八識(阿頼耶識)に蓄積され、第七識(末那識)がそれを自動操縦しているからである。
写真撮影、特に直感的なスナップ撮影においても同様の現象が起きる。通常の認識プロセスは「前五識(五感) ➔ 第六識(意識:言語・意味づけ)」という段階を辿るが、衝動的な撮影においては第六識(意識)の言語化が一時的にバイパス(迂回)される。五感の生データが深層の第七(末那識)・第八識(阿頼耶識:記憶・執着)とショートカットで直結し、「なぜ撮ったのか自分でもわからない」まま、身体反応としてシャッターが切られるのである。
写真が時に、言葉による説明を拒むような強い力を持つのは、思考(第六識:末那識)以前の潜在意識領域で光が定着されているからに他ならない。
写真を「鑑賞する」ということ
1. 前五識(眼識)の受容
2. 第六識(意識)による解読(ストゥディウム)
3. 第七識・第八識の共鳴(プンクトゥムの発生)
写真というメディアがもたらす「心の掃除と鍛錬」

横山紘一 著 「やさしい唯識 心の秘密を解く 」
2026年9月20日日曜日
最後の一枚までよろしく
オリエンタルには、高級印画紙の「シーガル」と廉価版の「イーグル」があったが、シーガルは高価なうえにあまりにも純黒調過ぎた。イーグルは、廉価版と言いつつも安っぽさが微塵もなく僕の好みによく合っていたので、一時期よく愛用していた。
歴史あるブランドが消えてしまうのは寂しい限りだが、これも時代の流れで仕方がない。最後にRCの8×10(100枚入り)を一箱注文しておいた。これで、僕が使うことのできるオリエンタルの印画紙の命数が具体的になってしまった。もう新たに入手することは出来なくなるのだ。
あとは、ハーマンテクノロジー(イルフォード、ケントメア)とフォマ、ADOXに頑張ってもらうしかないかな。もちろんOEM生産も大歓迎だが。
2026年9月17日木曜日
L型レリーズアダプター
前の冬の終わりに雪景色を撮影した時か、春の初めに桜の撮影に出かけた際、ケーブルレリーズと、その先端に装着するL型アダプターを落としたのか失くしてしまった。
ケーブルレリーズは過去に何本か買って使ってきたが、自分にとっては、布巻きの柔らかい素材のものが一番使いやすい。ビニールで包まれたものは、ケーブルの保護という点では破損しにくい利点があるものの、応力が強くてしなやかさに欠ける。
ケーブルレリーズは、フィルムカメラ時代の写真用品遺産というべきもので、大量生産され、そのほとんどが汎用品であり、安価な中古品が数百円で手に入るし、今でも新品で購入することができる。
そういうわけで、ケーブルレリーズはいい。問題はその先端に装着するL型アダプターである。このアクセサリーはケーブルレリーズほどありふれたものではなく、新品ではもう入手できない。しかも安くはない。
この「安くはない」というのは、決して手が出ないような価格ではないのだが、
「たかがこんなものにこの価格か」
と思ってしまう所以である。
少なくとも、新品で売られていた頃の価格よりは安く買えないと、どうにも納得がいかないのだ。 L型アダプターを失くしてからというもの、果たしてこのアクセサリーは撮影に必須のものなのかと、半年ほど自問自答してみた。
その結果、無くても問題ないという結論に達したものの、納得のいく価格で見つけたら買おうとは思っていた。 無くても問題ないのだから世間の実勢価格は余計に高く感じられ、探す努力もしなくなっていたが、ある時ふと、フリマサイトで安く出品されているのを発見した。しかもクーポンを使えば500円程度で購入できる。それを知るやいなや、誰かに先を越されないよう、秒で購入ボタンを押した。
今度こそ、失くさないようにしよう。
2026年9月10日木曜日
月光のカノン
8月の終わり、月光に輝く湖面を撮るため、湖畔へ向かった。しかし、今回も納得のいく結果を得ることはできなかった。それでも、6×7のフォーマットで一枚だけシャッターを切った。
今回の撮影で分かったことがある。月光が湖岸から沖へと一直線に伸びる「光の道」が現れる時間は、僕の予想では月の出から1時間ほど、あるいは月の入りまでの1時間ほどに限られるということだ。だが今回は、その時間帯に湖岸へ立つことができなかった。
理屈としては、きっと単純なことなのだろう。それでも僕は、身体で確かめなければ、物事を深く納得することができない。実際に湖岸に立ち、光が移ろいゆく様を目で追って、初めてその理屈が自分のものになった。
撮影の条件は、さらに厳しい。
月の出入りの前後1時間という限られた時間でありながら、同時に日の出前、あるいは日の入り後で、空が十分に暗くなければならない。
果たして、僕が狙うあの場所で、望む方角へ真っ直ぐに月光の道が伸びる瞬間は存在するのだろうか。
「月の出・月の入り時刻方角マップ」を開き、これから何度もシミュレーションを重ねることになるだろう。
仮に天象の条件がすべて揃ったとして、その刻、その場所に自分自身が佇むことができるだろうか。その夜の風は凪いでいるだろうか。雲の切れ間は開いているだろうか。
いつだって僕の心には、湖岸の木々の間から沖へ遥かに伸びる、眩い月光の道が映っている。
いつの日か、僕はその光の道の起点に立つことができるのだろうか。


