ずっと以前(20年ほど前だと思う)、杉本氏についてよく知らなかった頃、どこかの美術館で「海景」の一点が展示されているのを見たことがあった。当時は「何もない海が写っているだけ」という感想しか抱けず、価値を見出せずにいた。しかし、「なんだこれは?」と覚えた確かな違和感と共に、杉本氏の名前は記憶の底に残り続けた。
これまで杉本氏を自分の研究対象としてこなかったのは、写真家の枠に収まり切らない作家であったがゆえに、関心が向かなかったからなのだろう。
近年になり美術史を学び始めると、現代美術を代表する日本人作家として再び杉本氏の名に出会った。写真技術を用いた現代美術とはどのようなものか――そう思い立ち、作品が掲載された著書や随筆を数冊手に取ってみた。
そこにあったのは、圧倒的な知識の量だった。まさにリベラルアーツの宝庫のような頭脳を持つ作家だと感嘆した。現代美術への理解を深めると共に、杉本氏の作品はそうした知識や文脈(コンテキスト)の上に成り立っているのだと確信し、「海景」をはじめ、「劇場」「ジオラマ」「放電場」といったコンセプトを読み解いていった。
杉本氏の作品は、単なる感情だけで鑑賞するものではない。深く対峙しようとするならば、鑑賞者にも相応の素養が要求される。文脈を知ってこそ真価を楽しめる作品なのだ。
杉本氏が提示すること、そして考えていることは極めてシンプルである。しかし、それを実行に移すことがいかに困難であるかは容易に想像がつく。氏が制作プロセスをすべて公開し、「真似してもいい」と語りかけているのも、そうした自負の裏返しなのだろう。(当然、おいそれと真似できるはずもないのだが!)
暗闇の展示室に浮かび上がる大判プリントを見つめていると、単なる「写真」を超えた何かを感じる。鑑賞しているうちに、ふと江戸川乱歩の小説『大暗室』が頭をよぎった。
どこか不気味で退廃的な美しさ、そして「かつてそこに確かに存在したもの(あるいは巧妙に作られた虚構)」を凝視する冷徹な視線。像が結ばれる直前の「暗室」の闇そのものを思わせるその世界観は、杉本氏が意図しているかどうかは別として、僕にはその世界が江戸川乱歩の描く猟奇・怪奇の精神世界とどこかで響き合っているように感じられた。






