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2026年6月25日木曜日

波打つ時間のなかで

 

写真と文章の内容は関係ありません


 毎年、夏に地元の美術展が開催される。数年前にその美術展はリニューアルし、審査員は地元出身の写真家ではなく、知名度のある写真家や評論家が担い、毎年入れ替わるようになった。そのため、どんな作品が評価されるかは、まったく予想がつかない。

 展示会場が広いため作品サイズも大きくなるが、ゼラチンシルバープリントのシート印画紙の最大サイズは大全紙までしかないので、僕はそれを使うことになる。近年は、デジタル作品の印刷可能なサイズがとても大きくなったので、A0サイズでの応募もあり、大きさから受ける迫力において銀塩は不利である。

 この美術展は、作品サイズの大きさもさることながら、現代美術的な作風が強いと、近年の展示を見て感じていた。 それならば、そちらの方面で今年は作品を作ってみようと思い、昨年の秋の終わりから準備して、冬の終わりに完成させた。毎日のようにその作品を眺め、気になる場所にスポッティングを施すなど、手を加えていた。

 ところが、梅雨に入りかける少し前に、湿気のせいなのかは分からないが、木製パネルと写真の接着面が波打つようになってきた。最初は、気にならない程度であった。僕はそれを見ないふりをした。

 こんなに苦労して作り上げたのに、また作り直さなければならないのか。初めて作る時は創作活動であるが、やり直しは、苦痛を伴う作業でしかない。そもそも、手作業に占める割合が高い作品であるため、同じものを作るなんて出来るわけがない。 仮にやり直したとしても、落選する可能性もある。入選率の低さから予想すると、むしろその方が高い。もうやり直したくない。このままいってしまおう。 所詮は趣味だし、やってもやらなくても、誰かに対して責任を負っているわけではないし。

 そんな思いのまま、毎日作品を眺める日々が一か月ほど続き、作品搬入まで半月あまりになった。

 やっぱり、やり直そう。何が原因で失敗したのかは、よく分かっている。

 ネガを探し、引伸ばし機にセットしてルーペで粒子を見ながらピントを合わせ、印画紙をイーゼルに固定したら、露光する。予め用意しておいた現像液をたっぷり張った大全紙のバットの中で、露光済みの印画紙を揺らす。そして、水洗を終えたプリントを慎重に部分漂白する。

 ホームセンターでベニヤと角材を購入し、パネルを作る。ステインを何度も重ね塗りする。

 もうここまで来ると、やり直すことへの苦痛は、僕の中からは消えている。

 搬入日まで、残りの日々は少ない。でも、何とかなる。満たされた気持ちで、審査に臨もう。後のことは、後のことだ。



2025年10月18日土曜日

美術展

  秋はあちこちの自治体で公募美術展が開催されており、僕も数年ぶりに応募してみたところ、賞をいただくことができた。

 地元自治体系公募展の審査員の顔ぶれは、その地域で長く活動している方が毎年審査員を担っているケースが多いような気がする。多くの場合、審査員は地元写真サークルの指導者であり、審査員自身もそういった写真サークルの出身で、地元自治体美術展に応募を続けて入賞を重ね、審査員になっていったケースがほとんどである。

 そういった形の地元自治体美術展は、過去の入賞作品や審査員の作品を見ていると、前衛的な表現は稀である。おそらく、応募しても選考の段階で落選し、展示さえされない場合が多いのではないか。それに、応募する人たちは地元写真サークルに属していることが多く、指導員から前衛的な表現は教えてもらっていないのだろうと推察される。そして、サークルの例会に前衛的な作品を持ち込んでも評価されないため、作風がそこで指導者によって矯正されてしまうのだ。もちろん、審査員も悪気があって前衛的な作品を落としているわけではなく、自分たちの「写真」とは異質であるため評価ができないのだ。

 そんな地方自治体系美術展とは対照的に、毎年審査員が変わり、地元出身ではない著名な写真家や評論家等が審査員を務める公募展は、前衛的な表現のオンパレードであり、どんな作品を出品すれば入賞できるかは予測不可能である。そんな場では、地方自治体系公募展で評価されやすい作品は、あまりにも普通過ぎて目立つことはないため埋没してしまう。

 端的に言えば、地方自治体系公募展は枯れた表現が入賞しやすく、毎年審査員が変わる著名写真家等が選ぶ公募展は、前衛的な表現が入賞しやすい傾向にあると思う。

地域に根ざした写真文化の継承という意味で地方公募展には価値があるが、同時に表現の多様性が制限される構造的な問題もはらんでいる。

 以前のエントリーで、「創作において外部の基準に囚われることは本質的ではない」と書いた。それは、自分自身で納得がいかないものを作ることはない、ということである。枯れた表現、前衛的な表現、いずれも制作時に没頭できるのであれば、外部からヒントを得たとしても、それは自らの内側から生まれるものである。「囚われる」というのは、作りたくもないものを入賞目当てに作る、という行為である。それは義務的な作業であり、何も得るものはない。対価が発生するわけでもないので労働ですらない。結果として入賞し、そこで賞金を手にすることができるかもしれないが、それが何になるのか。

 枯れた表現と前衛的表現に優劣があるわけではない。僕自身、両方に興味がある。ただ、今のところ、前衛的表現の作品は、自分のためにアルバムにずっと残しておきたい作品ではない。数十年後に見直して、いいなと思えるのはやっぱり持続的な枯れた表現だと思うのだ。

 展示するために、大きな印画紙で前衛的な表現を用いて制作するのはとても充実感を感じる。ただ、あくまでも自分にとって常に新しい表現を発見する作業になり持続性が困難であり、アイデアがないと創り出すことができない。それでも、写真以外のことから着想を得たり、暗室で手を動かしているうちに思わぬ発見をする。

 だから、何かを作るのはおもしろい。


2025年8月3日日曜日

写真コンテストについて

  従来から各地で開催されてきた写真コンテストだが、昨今はSNSにハッシュタグを付けて投稿する参加形式も増えている。

 僕は多作な性分ではないため、納得のいく作品ができた時だけ参加している。コンテストは、その主旨や審査員の指向、時代性など様々な要因によって入選が決まる。つまり作品評価の基準はコンテストの数だけ存在すると言えるだろう。応募数の多いコンテストでは、同じ審査員が同じ日に再び審査しても結果が変わる可能性がある。それほどこの評価基準は不安定なものだ。評価基準を完全に明文化することも困難であり、審査員は客観性を意識しながらも、最終的には自己の主観の中で判断せざるを得ない。

 しかし、コンテストとはそういうものなのだ。落選を機に写真を諦め、コンテスト自体を嫌悪する人を多く見てきた。一方で、コンテスト対策が自身の表現方法と化してしまった人もいる。どちらも、コンテストという枠組みに心を囚われた状態だと僕は考えている。

 創作において、外部の基準に囚われることは本質的ではない。自分は自分の作品を作ればよい。人間は様々なものを吸収しながら成長し変化するが、その変化はコンテストという場における不安定な外的要因によってではなく、自らの内側から生まれるべきものだ。評価基準は常に流動的であるため、続けていれば自分に合う場所が見つかるかもしれないし、見つからないかもしれない。

 また、コンテストだけが作品発表の唯一の手段ではない。コンテストには適さなくとも優れた作品は存在するし、そもそも広く発表する必要のない創作の形もある。

 最近、時間をかけて丹念に作り上げた作品がコンテストで落選した。確かに残念ではあるが、だからといってコンテスト向けの作品を作ろうとは思わない。自分の心に響かないものを作ることはできないし、そうした作品を応募して再び落選したら、さらに虚しさを感じるだけだろう。(でも、入選したら嬉しいかも。)

 僕は来年も、不確実な評価基準と自分自身の内的成長という二つの変数が交わる瞬間を楽しみに、自分の信じる作品を出品していきたい。