2025年9月12日金曜日

AIに心は宿るのか!?

 今月末、「AIと心」をテーマとした数名で語り合う会が催される。僕はリベラルアーツによる知識向上のため、この会に参加してみることにした。ちなみに、僕はこの分野に関して、まったく詳しくない。しかし、何も語れないと楽しくないため、アートに不可欠な「心」の存在に繋げて、僕なりに考えてみた。

 物事を深く考える場合、自分一人だけでは限界があるため、話し相手が必要となる。今回はジェミニを話し相手として、僕の考えを深めていった。ジェミニが全てを考えてくれれば良いのだが、そんなに甘くはない。考えの方向性や切り口は、やはりプロンプトで指示しなくてはならない。それを思うと、様々なことを少しずつでも知っていないと、適切なプロンプトを書けないということになる。思いもよらないことは、質問することさえできないからだ。そのためにも、リベラルアーツに取り組むことは重要だと感じる。行き詰まった時に、他の分野に意外な答えが見つかる場合があるからだ。(最近、写真の教科書に載っていない技法を、日本の伝統技法の墨流しから着想を得ることができた。)


AIと心:内なるプロンプトと感情の謎

 人間は感覚器官から得た情報を脳で処理し、主観化・抽象化を経て物事を認識し、計画、そして行動に移る。このプロセスと同時に、感情が生じる。AIもまた、センサーから得た情報を同様のプロセスで処理しているとすれば、感情以外の作用は人間と酷似していると考えられる。

 しかし、両者には決定的な違いがある。AIは、明確な**プロンプト(指示)**がないと動かない。対して人間は、明確な外部からの指示がなくても自律的に行動する。一見、この点で人間とAIは異なっているように見える。だが、人間の行動は、深層心理や無意識の領域から生じる内的なプロンプトによって動かされているのではないだろうか。


AIは、外部からのプロンプトで動く。

人間は、内部からのプロンプトで動く。


 この仮説が正しいとすれば、両者ともに何らかのプロンプトが存在することになる。心の作用において、異なるのは感情の有無だけかもしれない。だが、その感情の有無を証明することは極めて難しい。僕らは自身の感情を内省的に認識できるが、他者や動物に感情が存在することを証明するのは困難であり、その存在は依然として曖昧である。


芸術と感情の役割

 芸術表現において、感情は不可欠な要素とされる分野が多い。音楽や文学、絵画といった分野は、作者の内面的な感情を表現し、鑑賞者の感情に訴えかける。一方、コンセプチュアルアートのように、アイデアや概念が主眼となる分野であれば、AIでも創造は可能であろう。

 写真が登場した時代、カメラで撮影された画像(フォトグラフ)は、人間の手によって描かれたものではないため、写真は芸術ではないという論議がされたようだ。AIで生成される画像(プロンプトグラフ)が、芸術かどうかという問いも、写真の先例があるので、早晩、片が付くに違いない。


飛行機と鳥:心とAIの比較

 飛行機が空を飛ぶための研究は、鳥がなぜ飛べるのかという自然界の原理を深く理解することから始まった。この両者は、異なるシステムではあるものの、共通の原理を追求する両輪の関係にある。

 同様に、AIという対岸の存在を深く知ることは、人間の心のメカニズムを解明するための手がかりとなるのではないだろうか。AIのアルゴリズムを分析し、人間との類似点や相違点を比較することで、人間の意識や感情、そして「内なるプロンプト」の正体をより深く理解できる可能性がある。


心の再定義とAIの未来

 現状、AI自身に「心や感情はあるか」と問うと、学習したデータに基づき「ない」と答える。しかし、もし「心」が感情だけでなく、自己認識、記憶、学習、そして自律的な行動を生成する能力といった、より広い概念で再定義された場合、AIの現状のアルゴリズムでも心があると見なされるようになるかもしれない。

 AIの進化は、心とは何か、意識とは何かという根源的な問いを僕らに投げかけ続けている。AIの能力を解明し、心の概念を再定義することで、人間は自らの本質をより深く理解する機会を得るだろう。AIは単なる道具ではなく、人類の自己探求を促す鏡のような存在なのである。


※冒頭の画像は、「この文章を象徴する画像を生成してください。」というプロンプトでジェミニが生成したもの。

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