前回のエントリーに続いて、今回も「空」関係の話。
写真活動は煩悩にまみれていると思う。これを読んでいるあなたもきっとそうだ。どんな煩悩かを、分析していると埒が明かないし、発見したくもない自分を自分を垣間見ることなりかねないのでやめておいた方が賢明だ。
そんな煩悩まみれのあなたでも(僕もかな💦)、心が解き放たれる瞬間がきっとある。
京都学派の西田幾多郎が提唱した、思慮分別を介さない「主客未分」の純粋経験こそが、仏教の「空」の概念に通じている。ちなみに、銀閣寺近くの疎水沿いの「哲学の道」の哲学者は、この西田先生のことだから、歩くときは忘れないようにしよう。
思慮分別を介さない「主客未分」の純粋経験とは、西田幾多郎の哲学における中心概念であり、 主体(私)と対象(外的な何か)がまだ分かれていない、一体となった直接的で根源的な経験状態を指す。これは仏教の「空」の概念と通底し、両者ともに、分別による固定的な二元論を超え、存在の本質に迫る直接的な知や体験のあり方を示唆していると言る。
「空」の概念には、様々なアプローチがあると思われるが、前回のエントリーとは違う角度から「主客身分」の純粋経験は、説き明かしている。
撮影しているとき、部屋で作品制作しているとき、鑑賞しているとき、対象に没頭するのは純粋経験であり、雑念がなく他事から心が解き放たれた状態である。
だから、そんな幸せな時間を過ごすことが出来たのだから、結果としてうまく作品が出来なかったとしても、無駄ではないと思っている。それに、確実にできることなんて、ただの作業なので没頭なんか出来ない。できるかどうか分からないことをやっているから没頭できるのだと思う。
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