2025年8月15日金曜日

答えに辿り着けないときは、別の道を歩けばいい




何で写真をやっているのか?

何でフィルムカメラを使うのか?

何でモノクロームなのか?

 個展を開催する間に、この命題については自分なりに解決しておかなければならないと思ったが、結局満足のいく答えには至らなかった。こういった根源的な問に実存的に答えるのはとても困難だ。というより、そんなものは存在しないと、最近悟った。

 元々、自分の中には何か写真に対する根源的な欲求が潜んでいて、様々な経験によりそれが顕在化していくものであり、根源的な欲求とは何かという問いの答えを探し続けていた。でも、見つからなかった。

 写真に携わることの楽しさや機材のおもしろさ、モノクローム写真の美しさについては、それぞれ答えることはできる。でも、それって、経験してみたから分かることであって、写真を始める前から分かっていたことではない。

 それでも、問われたときは、それなりに経験してきたことを答えてしまってきたが、返答する度に別のことを言っている気がする。←なぜなのかは後述する。

 最近、いろいろな本を読んで、気づいたことではあるが、自分の自由意思で、行動を決定しているわけではないという考え方がある。もちろん、誰かに強制されて写真をやっているわけではなく、主体的にやっているわけではあるが、それは、自分が生きてきた時代や場所、産業技術や、思想、生活環境、人間関係、等々の複合的かつ多元的要因から影響を受け、たまたまやっているのに過ぎないのである。たまたまって、無責任で思考停止に陥った感が拭えないが、どんなことでもそうだと思う。

 「自由」というのは、何ものにも左右されない状態であるが、人は常に何かに影響されて生きているにも関わらず、自由意志で行動していると勘違いしていることに気づかず答えを導き出そうとしているから答えが見つからない。スピノザの自由意志に関する考え方や構造主義の考え方を知った時、そう思った。

 自由意志があるのではなく、そこに流れ着いた自分がいるだけと言ってもいい。「流れ」については時代背景や生活環境等の側面から、また、流れ着いた場所に留まっている(写真趣味を継続している)理由については経験的側面から説明可能である。

 何で返答する度に別のことを言ってしまうのかというと、それは時間を経るごとに自分は変わっていくからである。

 例えば、1990年の自分は、1990年で固定されているから、その後、いつその当時のことを振り返っても過去は変わらないので同じはずである。というのは、観念的な見地からは違うと思う。

 なぜなら、1990年の自分を振り返るとき、2010年の自分が振り返るのと2025年の自分が振り返るのとでは、それを眺める時間的距離が違うと見えてくるものも違ってくる。写真だって、撮影距離が違うと、その意味合いが違ってくるのでそれは同じ事ではないだろうか。

 経験を積み重ねることで気付くことはある。自分にとって写真は、世界を知るために潜る門の一つであり、主客未分の純粋体験は精神的な救いでもある。

 世界を知るためには、どこの門(分野:例えば音楽でも工芸でも数学でもいい)から入っても進んでいくうちに、歴史、哲学、工学、化学等様々なものと出会うことになる。出会う度に自分と融合し、新たな自分が形作られていく。


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