前回のエントリーで、ロラン・バルト著『明るい部屋――写真についての覚書』(1997)について書いた。
そこで今回は、改めて生成AI画像との関連について考えてみたい。生成AI画像は、プロンプトによって生成される。プロンプトとは、当然のことながら言語を用いてAIに指示を与える行為である。
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バルトは、文化的に理解可能で、誰もが共有できる意味――すなわちコードの領域を「ストゥディウム(Studium)」と名付けた。
一方で、ときにそのコードが通用しない瞬間が訪れる。見る者を突き刺すような、「意味になりきらない何か」。バルトはそれを「プンクトゥム(Punctum)」と呼んだ。
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プロンプトは、誰もが共有できる意味によって構成されていなければならない。つまり、言語化可能なストゥディウム的イメージこそが、生成AIの得意分野であると言える。
前回のエントリーで触れた例をプロンプト化し、実際に画像を生成してみた。その結果が次のとおりである。
プロンプト
「日本の伝統行事の稚児行列に参加しようとしている化粧をした子供に、窓からの斜光線がその顔を照らしている画像」
生成結果
意外なほど、うまく生成されているのではないだろうか。
もし、このようなモチーフを対象に実際に撮影していたとしたら、「結果としての画像」だけを求めるのであれば、生成AIは極めて親和性が高い存在であると言える。
他にも、
「ひまわり畑とドクターイエロー」
「ひなびた駅のホームで、白いワンピースを着た女性がトランクを持つ風景」
「山城と月」
それらは、SNSで「映える」画像は言語化が容易であることに気づかされる。
この技術の登場は、写真表現において一つの転換点になるのではないだろうか。過去にも、似たような転換点があった。
<写真と印象派以降の類似性>
19世紀、写真が「現実の忠実な記録」という役割を担うようになったことで、画家たちはそれまでとは異なる、多様な表現へと向かっていった。
印象派は光や瞬間の印象を追求し、キュビズムは多視点の同時表現へと踏み込み、抽象画は形態や色彩そのものを探求した。写実という「機能」から解放されたことで、人間にしかできない表現が模索されていったのである。
<生成AIによる新たな分岐>
生成AIが「言語化可能なイメージ」を高精度で生成できるようになった今、アートは次のような方向へとシフトしていくのかもしれない。
・言語を超えた領域
――プロンプトでは記述できない曖昧さ、矛盾、無意識的要素の追求
・物質性・身体性
――デジタルでは再現不可能な素材の質感や、制作プロセスそのものの価値
・偶然性と予測不能性
――アルゴリズムの確率的生成とは異なる、「真の偶然」との対峙
・文脈依存の体験
――特定の空間・時間・鑑賞者との関係性の中でしか成立しない作品
もっとも、写真が登場しても写実絵画が消えなかったように、生成AIの時代になっても、従来と同じ表現を続ける人はいるだろう。結果として、多様な表現が共存していくはずだ。
そんな時代に、僕はどこへ向かおうとしているのだろうか。少なくとも、言語化できた時点で安心してしまうような表現ではない。「何が写っているか」が説明できた瞬間に、役割を終えてしまう場所には立っていないつもりだ。

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