
砥上 裕將著「線は、僕を描く」
大学生である主人公の鎮魂と再生の物語を、水墨画の修行を通して描いた小説だ。
大事なことが書かれているような気がして、時期を変えて三回読んだ。
横浜流星主演による映画版もある。だが、いくつか省略されているところがあり、湖山先生(主人公の水墨画の師匠)のキャスティングも、少しイメージと違った。格好良すぎるのだ。
この物語に必要なのは、完成された佇まいよりも、もう少し不器用な気配なのかもしれない。だから、やはり小説のほうがいい。
心に残った湖山先生の言葉を、書き留めておいた。
・目の届くところにしか、手の技は届かない。
・できることが目的じゃないよ。やってみることが目的なんだ。
・どんなに失敗してもいい。失敗することだって、当たり前のように許されたら、おもしろいだろ?
・拙さが、巧みさに劣るわけではないんだよ。
・気韻生動を尊ぶ。気韻というのは……端的に言えば、楽しんでいるかどうか、だよ。
・自分の絵だけを見ていれば、そのうち自分自身の手にも、技にも、騙されるようになってしまうよ。
・現象とは、外側にしかないものなのか? 心の内側に、宇宙はないのか?
・(水墨画は)着彩を排していることからも、我々の外側にある現象を描く絵画ではない……。
・我々の手は、現象を追うには遅すぎるんだ。(描き)終わったときには、またすべてが変わっている。
・絵は、絵空事だよ。
・君が優れた水墨画家になるか、ならないかなんて、そんなことはどうだっていい……それを伝える術が、水墨しかなかったんだよ。
これらの言葉は、水墨画に限った話ではない。写真を撮ることにも、そのまま重なる。
目の届くところにしか、手の技は届かない。認識していないところに、技巧を凝らすことは出来ない。
できるかどうかよりも、シャッターを切ってしまうこと。失敗を許された場所でしか、像は立ち上がらない。
現象は外側にだけあるのか。それとも、こちらの内側にすでに用意されているのか。
手は遅い。気づいたときには、光も、気配も、すでに別のものになっている。
それでも、遅れたまま、触れようとする。
絵は絵空事だ、という言葉が、なぜか救いのように残る。写真もまた、現実そのものではない。
だからこそ、そこにしか宿らないものがある。
これは、僕にとっては形而上のレンズについて書かれた物語なのだと思う。
目に見えるものを写しながら、いつのまにか、こちら側が描かれてしまう、その過程について。
線は、僕を描く。
写真もまた、僕を描くのかもしれない。
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