ゼラチンシルバープリントの印画紙には、RCとバライタがある。
どちらも光を受けて像を浮かび上がらせるが、その質感はまるで別物だ。額に入れてしまえば、ぱっと見には違いが分からないかもしれない。しかし、手に取った瞬間に伝わるものがある。RCは軽々しい感触。対してバライタには、しっとりとした深みと、紙そのものが呼吸しているような重さがある。
もしこの世にバライタ紙というものが存在しなければ、RCでも十分に満足できただろう。だが、一度その“深さ”を知ってしまった者にとっては、RCの風合いでは物足りなくなる。
作品を長く残したいと思うとき、自然と手が伸びるのはやはりバライタなのだ。
けれど、バライタは手間がかかる。
水洗、アーカイバル処理、乾燥、そして最後にフラットニング。どれも時間を要する作業だ。
化学的な工程は理屈で理解できる。だが、乾燥と仕上げは理屈では割り切れない。湿度、気温、紙の繊維の状態──それらが微妙に絡み合い、時にこちらの意志を裏切る。まるで、紙が自分の呼吸の仕方を選んでいるように感じることもある。
暗室用品の中に「ドライマウントプレス機」という道具がある。
印画紙をマットボードに接着するための器具で、フラットニングにも使える。簡単に言えば、大型のアイロンのようなものだ。
だがこの機械は高価で、重く、場所も取る。あの単純な構造にしては驚くほど値が張る。写真のために使う器具の中でも、妙に購入意欲を削がれる道具のひとつだ。
かつて、ズボンプレッサーで代用できると聞き、試してみたことがある。自宅にあったので使ってみたが結果は散々だった。
それ以前に、ズボンプレッサーにプリントを挟むという行為自体に、どうしても気持ちが乗らなかった。そのため、努力や工夫をする前に諦めてしまった。
その後の二十年ほど、乾燥したバライタ印画紙をミュージアムボードに挟み、重しをのせて平らにする方法を続けてきた。
時間はかかるが、これで実用上は問題ない。ファイルに保管でき、額装して展示しても誰にも指摘されたことはない。
実際、美術館で見る古い名作の中にも、よく見ると波打ったプリントが少なくない。そう思えば、自分の仕上げも決して悪くないと慰められる。
それでも、胸の奥で引っかかり続けるものがある。
「満足できる」と「納得できる」は、似ているようで違う。
表面が平らでも、僕の心のどこかが波打っている。印画紙の状態が心のメタファーなのか、心の状態が印画紙のメタファーなのか、そんな感覚を抱えたまま、いつの間にか二十年が過ぎていた。
長く解決できない問題というのは、もはや努力不足ではなく、物理的な壁のようなものだと思う。
それを超えるには、技術でも根性でもなく、ただ“正しい道具”が必要だ。
しかし、あのドライマウントプレス機を思い浮かべるたび、やはり財布の紐は緩まない。
そんなある日、アマゾンの画面の中で「熱転写プレス機」というものを見つけた。
本来はTシャツなどに絵柄を転写するための機械らしい。温度も圧力も調整でき、形もドライマウントプレス機に似ている。
レビューを眺めながら、「これでいいのではないか」と思った。
ズボンプレッサーと違って、これは見た目からして“やる気の出る形”をしている。気分は作業の半分を決める。これは写真に限ったことではない。
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アンセル・アダムスの『THE PRINT』には「100度で3分プレス」とある。
その記述を思い出しながら、マットボードにバライタ紙を挟み、慎重に温度を設定してスイッチを入れた。
プレス機が静かに熱を送り込む間、わずかに立ち上る紙の匂いが暗室の空気に混ざった。
3分後、蓋を開けると、そこにあったのは見事に伸びた一枚のプリントだった。
光沢が均一に広がり、波打ちはどこにもない。ほんの少し、紙が誇らしげに見えた。
紙の状態によっては、もう一度プレスを繰り返すこともある。
あまり温度を上げるとゼラチン層が溶けてしまうので、慎重な調整が必要だ。
その“慎重さ”こそが、作業を作業以上のものにする。
温度計の数字を見つめながら、紙の呼吸を感じ取るように手を動かす。
プレスを終え、冷えたプリントを光にあてる。
――これで、人生の問題のひとつが片づいたような気がした。
ただ一枚の紙を平らにすること。
それは、技術の問題であると同時に、心の平穏を取り戻す儀式でもある。
バライタの光沢を指先で確かめながら、僕はようやく、長い時間をかけて一枚の紙と和解できたように思う。
考えて納得したのではない。
説明できたから解決したのでもない。
指先で触れたから、終わった。

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