現代美術家であり写真作家でもある杉本博司氏。
彼の代表作「海景」シリーズ。その最初の一枚は、カリブ海を訪れたとき、偶然に撮影された一枚から始まったという。
南洋の強い日差しの下、奇跡のように雲ひとつない水平線。
そして、たまたまうまくいったネガ現像。
数々の偶然が重なり、あの一枚が生まれた。
しかし、杉本氏は語っている。
「偶然(マグレ)には再現性がない」と。
その偶然を必然へと変えるまでに、十年の歳月を要したという。
巨匠ですら、十年。
けれど、その「マグレ」を見逃さなかった眼差しこそ、すでに必然の萌芽だったのだろう。
杉本氏によれば、初期の頃はどれほど丁寧に作業しても、現像ムラが避けられなかったという。それを克服するために、自ら道具を考案し、理想の調子で現像できるようになるまで、十年を費やしたらしい。
僕もまた、シートフィルムの現像ムラに長く悩まされた一人だ。
杉本氏の8×10に比べれば、僕の4×5などまだ扱いやすい方だろう。
それでも、皿現像、ハンガー現像、各社のタンク現像……方法を変えても、どれも満足のいく結果が得られなかった。
現像ムラの原因を、「道具のせいではなく、自分の技術が未熟だから」と結論づけた。
だが、何年も試行錯誤を重ねても、ムラは消えない。
現像液の温度、攪拌のリズム、時間、濃度。
すべてを見直しても、フィルムのトーンには微かな不均一が残った。
転機は、友人が3Dプリンターで作ってくれたシートフィルムホルダーだった。
使い慣れたステンレスタンクにそれを装着して試してみると、長年悩まされたムラが嘘のように消えた。
――原因は技術だけではなく、道具にもあったのだ。
もちろん、皿現像を完璧にこなす人もいる。
あるいは、被写体にトーンのフラットな部分が少なければ、ムラは目立たないのかもしれない。
それでも僕には、この解決がひとつの“救い”に思えた。
長い間見えなかった水平線が、ようやくくっきりと浮かび上がったような感覚だった。
杉本氏の「海景」シリーズは、奇跡のような偶然から始まった。
だが、その後の長い時間の中で、偶然は確かな必然へと変わっていった。
おそらく偉大な作品の多くは、そうして生まれていくのだろう。
ふと訪れた瞬間に“偶然”が宿り、それを受け止めるための“準備”と“悟性”が、写真家の中で静かに育っていく。
その最初の一枚を「撮る」ために必要なのは、技術でも運でもない。
現象を深く見つめ、世界の成り立ちを理解しようとする意志――
それを作品として形にできる、成熟した眼差しなのだと思う。
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