2026年1月6日火曜日

認識を助けるための、忘却

 

PENTAX SP Super-multi-coated Takumar 55mm f1.8

Fomapan200(EI100)  Stoeckler Two-bath Film Developer

SILVERCHROME FLEXGRADE RC Matt

 フィルム写真は、撮影後すぐに確認することができない。後で見返してみると、なぜこんな写真を撮ったのか自分でも分からないものがある。意図的に撮ったのか、あるいは事故的にシャッターが切れてしまったのか、それすら判然としない。

 現像するまで結果が分からないその時間を「楽しみ」だと言う人は多いが、僕個人はそう思ったことはない。デジタルカメラであれば即座に確認し、失敗していれば消去して撮り直すだろう。フィルムでも同様のことが可能なら、おそらくそうしてしまっている。

 デジタルカメラにおける「即座の消去」は、「現在の自分」の価値観による検閲とも言える。撮影した瞬間の自分にとって「失敗」と見なされたものは、その場で存在を抹消され、未来の自分に届くことはない。

 それならば、デジタルカメラでの「失敗作」も、消去せずに保存しておけば良いのかもしれないが、僕の場合、デジタルカメラでの撮影目的は、あくまでも「記録」なので、意図に反したものは、消去したい性分なのだ。
 
  しかし、その「効率の良さ」が必ずしも良い結果に結びつくとは限らない。

 フィルムの場合、結果を見るには待たざるを得ない。「待つ」と言っても、僕の場合は自分で現像しているため、未現像のまま保管している時間が長いというだけのことだ。フィルムは、ある程度溜まってから作業した方が効率も良く、現像液の節約にもなる。

 結果として、撮影から暗室でプリントするまでには、ある程度の月日が経過することになる。そこには思わぬ効用がある。時間が経つことで、撮影時の記憶があいまいになっていくのだ。それは、画像を暗室で再構成する際、良い方向に働く。撮影時の主観的な感情が薄れることで、自身の写真を客観視できるようになるからだ。

 「待つ」という行為は、単なる効率化ではなく、それは、「自分」というノイズが消えるのを待つための熟成期間なのかもしれない


 撮影した瞬間の「僕」と、数ヶ月後にネガを見る「僕」は、別の存在である。時間が経過することで、かつての自分の感情というバイアスが剥がれ落ち、純粋な「対象」として写真に向き合える。「忘却」が「認識」を助けてくれる。

 この写真も、撮影した記憶が全くない。しかし、ピントも露出もそれなりに合っている。何かの弾みでシャッターが降りたわけではなさそうだ。気になって、小さな印画紙にさっとプリントしてみた。

  仕上がったものを見ても、やはり「これは何だ」という感覚は拭えない。だが、そのわけの分からなさが面白い。自分でもこれ以上どうしようもない写真なので、「このネガを丁寧に焼き直そう。」とまでは思わない。

 ただ、こうして図らずも撮れてしまった写真が、表現の新たな出発点になることはある。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

初めてコメントします。「寝かせる」ことで客観的に写真を見ることができるということに共感しました。デジタルで即座に消去してしまう自分はかなり主観的ということについては掘り下げてみるともっと面白そうですね。

うたろう さんのコメント...

即消去という行為は失敗をなかったことにしたい気持ちの現れなのかもしれません。それが後になって意味を持つかもしれないのに。

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