2026年7月14日火曜日

展示とは、自分の到達点を問う場である

 


​ 展示や公募展は、「完成された最高傑作」のみを見せる場所ではない。

 そもそも、それが本当に最高傑作なのか、あるいは完成品なのかは、誰にも分からない。時間が経過して見返したとき、当時はまだ見えていなかったことに気づく場合があるからだ。

 もしその気づきがなければ、表現者としての歩みはそこで終わってしまう。仮に絶対的な到達点というものがあるとして、そこに達してしまったら、次はどこへ行けばいいというのか。したがって、「完成」という状態は非常に曖昧なものだ。

 ​作品は時間の中で変化する。それは作品そのものが変質するのではなく、作者の「認識」が変わるからである。

 そう考えると、展示とは「私は今、ここまで来ました」という報告に近い。

 登山に例えるなら、山頂に立った証明ではなく、現在地の無線連絡のようなものだ。

 十年後に見返すと、「構図が甘かった」と思うかもしれない。あるいは、「もう、あんな気持ちで、撮ることは出来なくなった」と、もう既にいなくなった過去の自分の喪失を感じるのかもしれない。

 それは、今の僕には分からない。なぜなら、十年後の僕はまだここにいないのだから。「これで完成なのか?」という問いに、あらかじめ用意された答えなどない。

​ 展示において、どんなカメラやレンズを使ったか、どんな技術で作ったか、ということはさほど重要ではない。お金で買える機材や既成の知識は、その人固有のものではないからだ。

 そんなものを誇示するよりも、「僕が世界をどう見ているか」がそこに写り込んでいることの方が、遥かに肝要である。

​ 展示する意味とは、その問いを他人の前に差し出すことにある。

「僕は今、世界をこう見ています」

 そう差し出されたものに対して、見る人は賛同するかもしれないし、何も感じないかもしれない。あるいは、まったく別の解釈をするかもしれない。

 それでも展示は成立する。​ 逆に、「完成してから発表しよう」という思い込みは危険極まりない。なぜなら、本当に完成したと思える日など、生涯ほとんど来ないからである。

 世界を眺めていると、問いはとめどもなく湧き上がる。


 木を見れば時間を考え、

 暗室の薬剤を見れば物質を考え、

 月を見れば露光時間を考える。


 探求とは、どこかにある完成形に到達することではなく、問いを深め続けるプロセスそのものなのだ。

 ​展示作品が、単なる偶然の一枚ではなく、僕が長く考えてきた問いの「途中経過」として、自分らしさと意味を持ったものであれば、それでいい。

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