2025年11月25日火曜日
暗室の冬支度とハーフカメラ
2025年11月22日土曜日
フローへの助走
本日も秋晴れだ。僕は部屋に丁寧に掃除機をかけ、布団を太陽の温もりをたっぷり吸って膨らむように陽光の下に広げる。今夜の心地よい眠りは、これで約束されたようなものだろう。
布団を干している間、先日の美濃市で撮り切れなかったフィルムが入ったままのカメラを手に取り、中山道の湊町へ愛用の自転車に跨がり、静かに漕ぎ出した。
先日訪れた美濃市もそうだが、近代化の波が押し寄せる以前のまち並みには、どこか時間の厚みが漂っている。旧街道の裏手には、過去への分岐点のような狭く、曲がりくねった道が張り巡らされ、そこには時間を遡ったかのような魅力的な被写体が潜んでいるのだ。
自転車を漕ぎ始めて最初の10分ほどは、いつものことながら体が重い。まだ出発したばかりなのに、「もう引き返そうか」という億劫な気持ちに囚われそうになる。
だが、その時間を越えると、次第に心身が動きに馴染み、ペダルを漕ぐことに一定のリズムが生まれる。その後は、意識と行為が融合し、まるで水が流れるようにフロー(Flow)の状態へと移行していく。移動と時間の経過が、内側で一つになっていくあの感覚だ。
創作活動においても、このフローの状態に自分を置くことが、最良の結果を生む鍵だと僕は思っている。
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【フロー(Flow)】とは、心理学者のミハイ・チクセントミハイが提唱した概念で、僕らが特定の活動に完全に没頭し、時間の感覚さえ忘れてしまうほど夢中になっている心理状態を指す。フロー状態は、高い集中力と生産性をもたらすだけでなく、活動そのものから大きな充足感や幸福感を得ることができる。
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フローに入るためには、あの自転車の漕ぎ始めと同様に、「億劫さ」という助走期間を乗り越える必要がある。このエンジンがかかるまでの一手間が、創作活動に取り掛かるのを妨げる最大の壁だ。
フローに入るためにコーヒーを淹れたり、気分を上げる音楽を聴いたりしているうちに、結局その準備だけで終わってしまうことが多々ある。集中力を上げるために、音楽を聴き、ごく短時間、瞑想状態に身を置くことはフローに入るための準備としてはとても効果的ではあるが、そのまま眠ってしまうこともある。
活動を始めても、即フローになるわけではない。フローに入るための条件がある。なぜなら、フローは、「何か他の目的」のためにあってはならないからだ。その活動に「縛り」があると、それは雑念となり、純粋な集中の妨げになる。
撮影に出かけているのに、途中で急に仕事の電話がかかってきたりすると、その瞬間にフロー状態は継続困難となり解除されてしまう。暗室での作業においても、その行為が失敗を取り戻すための作業であったり、金銭的な目的や迫りくる納期といった「外部の動機」は妨げとなり、心の純度を失うことでフローには入りづらい。
フローに入るための理想の形は、完成するかどうか自分でも分からない作品を試行錯誤できること。曖昧なままで手探りで向き合える環境こそ創作を深く支える。
フロー状態に身を置くことは、充実感や幸福感に直結する。フロー状態は創作活動以外でももちろん入ることができる。スポーツ、読書、美術鑑賞、映画鑑賞、性行為など、多くの活動がフロー状態を経験できるものだ(音楽鑑賞のような受動的な行為はフローの準備には使えるが目的化はしにくい)。
そして、脳は、繰り返し行われた思考や行動に対応して、特定の神経細胞間の結合を強化したり、新しい結合を作ったりする。ゆえに、幾多のフロー体験を重ねることは、単なる一時的な集中力の向上ではなく、脳の構造と機能を変化させ、「フローに素早く、深く入るための習慣的な脳内メカニズム」を築き上げる訓練となり、創作活動において大きなアドバンテージとなる。
この日、僕は数ヶ月前にフィルムを装填したカメラから、ようやく撮影済みのフィルムを取り出すことができた。
撮影中は、「フィルムが残っているから撮らなければ」という思いは全くない。ただ歩いて、光と影の気になるところを探し、見つかったら、露出とピントを合わせてシャッターを切る。ただそれだけの行為を、無心で何度か繰り返した。
フィルムの残りがなくなると、「もう一本持って来れば良かったのに」という小さな後悔の念と共に、心地よかったフロー状態が解除された。
短い秋の陽が、沈みきらないうちに帰宅して布団を取り入れよう。 今夜はふっくらと膨らんだ布団の中で眠る前に哲学書を読んで別のフローに入り込んでみよう。
2025年11月18日火曜日
撮り切れない午後
冷たくなり始めた風が、秋の深まりを告げる午後のこと。撮りかけのフィルムが入ったハーフカメラを提げ、僕は美濃市の旧市街へと向かった。
その日の予定は、場所、カメラ、移動手段、そして心の微妙な揺らぎが複雑に絡み合って決まる。この日は、岐阜の郷土の味「鶏ちゃん」を食べたくなり、秋晴れの長良川沿いを愛用のオートバイで走りたい衝動にも駆られていた。そして何より、撮りかけのフィルムを撮り切って現像したかった。
平日の遅い昼下がり、評判の店は幸いにも空いていた。鉄板が据えられたテーブルの一つに腰を下ろすと、店員が鶏肉と野菜を手際よく炒めていく。時折開く自動ドアから秋風が入り込み、湯気を奥の座席へと運んでいった。湯気と匂いが混じり合う、その一瞬に季節の移ろいを感じた。
お腹を満たしたあとの午後の残り時間は、街のスナップに充てることにした。美濃市といえば「うだつの町並み」だが、整いすぎた風景は僕の求める被写体を隠してしまう。むしろ観光の賑わいから少し外れた路地にこそ、時代の残滓が存在している。朽ちた看板、幾層もの記憶を纏った壁。そうしたものはどこにでもあるようでいて、初めての街の新鮮な眼差しが新たな発見をもたらしてくれる。僕は街の中心から少しずつ外へと歩を進め、その痕跡を追った。
通りのあちこちには、今年も「美濃和紙あかりアート展」の作品が並んでいた。和紙で形作られた灯りの塑像が、午後の光に淡く光っている。
ふと、彫塑作品の題名について考える。具体的な事物の名もあれば、「時間」「希望」といった形而上学的な言葉も多い。ここにある作品の題にも、そうした普遍的な問いかけが潜んでいた。
翻って、写真の題名はどうだろう。多くは「〇〇の橋」「祭りの〇〇」といった具象的なものが多い。
思えば、彫塑は無から物質を削り出し、抽象を具象へと立ち上げる行為だ。だからこそ、形而上学的な題と響き合うのだろう。
だが写真は、現実の断片を定着させる宿命を持つ。写っている事物の意味から、鑑賞者の意識を完全に解き放つことは難しい。だからこそ、写真で抽象や思想を表現するには、題名が視覚情報の先を照らす「思索の道標」とならねばならない。
芸術という領域において、写真の題名はあまりに軽んじられてはいないか。作品名は、鑑賞者が作品と向き合う際の「入口」であり、そこから深淵へと降りていくための言葉だと僕は思う。
夕陽が影を長く引き始めたころ、今日もまた撮り切れなかったフィルムをハーフカメラごとバッグにしまった。
そんな問いを胸に、オートバイのエンジンをかける。冬の気配を頬に感じながら、静かにハンドルを握った。

