2026年1月10日土曜日

在庫という名の安心


 ここのところ、まち歩きのスナップが楽しくて、135フィルムをよく使っている。
一年で100ftフィルムを一巻(缶)、消費するくらいのペースだ。

 先日、フィルムをパトローネに巻き取るためのローダーに、新しいフィルムを装填した。ローダーは普段、冷蔵庫で保管し、必要な分だけを切り出して使っている。気がつくと、未開封の100ftフィルムがなくなっていた。補充しなくてはならない。

 いつも利用していた海外のECサイトで注文しようとしたが、ユーロがあまりにも高くなり国内で購入するのと、価格的な差がほとんどない。おそらく、近いうちに国内で販売されているものも、次の輸入ロットでは為替の影響を受け、値上がりする可能性があるだろう。それに加えて、フィルムや印画紙に必要な銀の相場が高騰しているという話も耳にする。

 安くなる要素は、今のところ何も見当たらない。
 
 そんな情勢なので、国内で入手できる価格が変わらないうちに、2巻(缶)注文しておいた。これで、おそらくあと3年は大丈夫だ。もっと在庫しておいてもいいのかもしれない。しかし、今後も135フィルムを多く使うとは限らないし、そもそも写真活動そのものに興味が薄れる時期が来るかもしれない。過度に長期保管するリスクも、頭の片隅にある。

 それに、もしかしたら「何か」の要因で、為替や銀価格のトレンドが変わり、今よりも安くなる可能性だって、ゼロではない。可能性はかなり低いが、それでも、そうならないとは言い切れない。

 現在、フォマパン200の100ftフィルムは9000円ほどで、そこから36枚撮りが18本取れる。1本あたりにすると、500円くらいだ。20年ほど前、もっと性能の良いフィルムが1本150円程度で手に入ったことを思えば、ずいぶん高くなった。それでも、500円で踏みとどまってくれていることに、感謝すべきなのかもしれない。

 ここまで書いて、やっぱり心配になってきた。
 近いうちに、あと2巻(缶)注文して、心の平安を得ようと思う。

 

2026年1月6日火曜日

認識を助けるための、忘却

 

PENTAX SP Super-multi-coated Takumar 55mm f1.8

Fomapan200(EI100)  Stoeckler Two-bath Film Developer

SILVERCHROME FLEXGRADE RC Matt

 フィルム写真は、撮影後すぐに確認することができない。後で見返してみると、なぜこんな写真を撮ったのか自分でも分からないものがある。意図的に撮ったのか、あるいは事故的にシャッターが切れてしまったのか、それすら判然としない。

 現像するまで結果が分からないその時間を「楽しみ」だと言う人は多いが、僕個人はそう思ったことはない。デジタルカメラであれば即座に確認し、失敗していれば消去して撮り直すだろう。フィルムでも同様のことが可能なら、おそらくそうしてしまっている。

 デジタルカメラにおける「即座の消去」は、「現在の自分」の価値観による検閲とも言える。撮影した瞬間の自分にとって「失敗」と見なされたものは、その場で存在を抹消され、未来の自分に届くことはない。

 それならば、デジタルカメラでの「失敗作」も、消去せずに保存しておけば良いのかもしれないが、僕の場合、デジタルカメラでの撮影目的は、あくまでも「記録」なので、意図に反したものは、消去したい性分なのだ。
 
  しかし、その「効率の良さ」が必ずしも良い結果に結びつくとは限らない。

 フィルムの場合、結果を見るには待たざるを得ない。「待つ」と言っても、僕の場合は自分で現像しているため、未現像のまま保管している時間が長いというだけのことだ。フィルムは、ある程度溜まってから作業した方が効率も良く、現像液の節約にもなる。

 結果として、撮影から暗室でプリントするまでには、ある程度の月日が経過することになる。そこには思わぬ効用がある。時間が経つことで、撮影時の記憶があいまいになっていくのだ。それは、画像を暗室で再構成する際、良い方向に働く。撮影時の主観的な感情が薄れることで、自身の写真を客観視できるようになるからだ。

 「待つ」という行為は、単なる効率化ではなく、それは、「自分」というノイズが消えるのを待つための熟成期間なのかもしれない


 撮影した瞬間の「僕」と、数ヶ月後にネガを見る「僕」は、別の存在である。時間が経過することで、かつての自分の感情というバイアスが剥がれ落ち、純粋な「対象」として写真に向き合える。「忘却」が「認識」を助けてくれる。

 この写真も、撮影した記憶が全くない。しかし、ピントも露出もそれなりに合っている。何かの弾みでシャッターが降りたわけではなさそうだ。気になって、小さな印画紙にさっとプリントしてみた。

  仕上がったものを見ても、やはり「これは何だ」という感覚は拭えない。だが、そのわけの分からなさが面白い。自分でもこれ以上どうしようもない写真なので、「このネガを丁寧に焼き直そう。」とまでは思わない。

 ただ、こうして図らずも撮れてしまった写真が、表現の新たな出発点になることはある。

2026年1月4日日曜日

ノイズに耳を澄まし、目を凝らす


   


  昨年を振り返ってみると、古楽をよく聴いていた。聴き始めの頃は知識がなく、十六世紀の音楽家ジョン・ダウランドのリュート作品ばかりを繰り返し聴いていた。

 なんて心癒される音色だろうと思った。

 他のリュート作品も聴いてみたくなり、オムニバスCDを手に取った。すると、音色や奏法に随分と違いがあることに気づいた。
 
 調べてみたところ、リュートにはルネサンス様式とバロック様式があるらしい。僕が聴いていたジョン・ダウランドはルネサンス様式である。 バロック様式では、リュートを大型化したテオルボという楽器があり、かなり低音が出る。音域がとても豊かである。 テオルボの作品を調べて、今村泰典さんの「バッハの《無伴奏チェロ組曲》」を、ダウンロード購入してみた。 (YouTube でも視聴できるみたい。) 

  僕は、音楽にはまったくと言っていいほど門外漢で、音楽理論は分からないので、理性ではなく感性のみで鑑賞することになる。

 知識がないことは、悪いことばかりではない。器楽曲であれば、耳から脳に届く情報を理性で分析することなく、感性のまま受け止めることができる。日本語の歌詞が入った曲だと、理性で意味を解釈しないわけにはいかないため、そうはいかないが。

  リュートのようなソロの演奏を聴いていると、手のひらがネックを滑る音や、袖が弦に触れたときの音に気付く。

 DTM(コンピューター打ち込みの音楽)では、身体行為に付随するノイズは発生しない。ノイズは一般に雑音とされるものだが、そういったノイズは快なのか、あるいは不快なものなのか?僕には快く聴こえるため、好意的なものとして捉えている。

 耳に届く「身体的なノイズ」が音楽に奥行きを与えるように、視覚表現におけるノイズもまた、単なる雑音以上の意味を持ち得るのではないか。

 フィルム写真の世界を振り返ると、現像ムラや傷、埃といったノイズは、かつては徹底的に忌避される対象だった。しかし、いつの頃からかこのノイズを表現手段とする作品が見られるようになった。

 フィルムの最初と最後のコマの、半分しか露光されていない像を積極的に面白がるのも同じ感覚だと思う。 先日読んだ村上隆氏の「芸術闘争論」の文中に、視線誘導をするため、ノイズを意図的に描くこともある。というくだりがあった。僕の場合、現像ムラがあるネガは、即座に失敗と判断し、傷や埃によるスポットは、印画紙に修正を施し、その存在を消してきた。 

 リュートの弦が擦れる音を愛でるように、これからは写真に現れるノイズもまた、一つの「音色」としてその可能性を模索してみたい。