2026年8月29日土曜日

「この声で歌う」ことしかできない

 


 8月末の残暑が厳しい折、京都写真美術館で開催されている、多田洋写真展「無頼」を見に行った。

 そこには、岐阜の街角を切り取ったスナップや、抽象的な影と形をモチーフにした30点のゼラチンシルバープリントが、たしかな息遣いとともに並んでいた。

 多田さんは、かつて写真月刊誌の月例コンテストという激戦区で、毎月のように紙面を飾っていた実力者である。その過酷な場で勝ち残り、評価され続ける背景には、並大抵ではない年月と凄みが宿っている。それほどにまとまった数のオリジナルプリントを直に眼差すことができたのは、非常に得難い時間だった。

 作品群と向き合う中で、僕の心を強く捉えて離さなかったものがある。それは、画面全体に漂う絶妙な「粒子感」だった。おそらく多田さんご自身は、ことさらそれを意識してはいないのかもしれない。

 しかし、そこには僕自身の作品にはない、ざらりとしながらも乾いた手触りがあり、ただただ羨望の念を抱かずにはいられなかった。

 ふと、写真家・内田ユキオさんのエッセイ『ライカとモノクロの日々』にある、「この声で歌う」という一節が脳裏をよぎる。

 ゼラチンシルバープリントにおけるネガというものは、選ぶフィルムや光の測り方、現像液の処方や希釈、そしてタンクを揺らす攪拌のリズムに至るまで、その人の息遣いや癖が否応なく染み込み、唯一無二のトーンとなって立ち現れる。あの美しい粒状性も、きっとその結晶なのだ。

  それは歌手にとっての「声」によく似ている。どれほど他人の声が魅力的に響こうとも、それを自分の喉に移植することはできない。歌手はみな、己に与えられた声で歌い切るしかないのである。

 表面的なプロセスを真似ることはできるだろう。しかし、それで奏でられるのは決して「自分」ではない。

 果たして、僕は、自分の声でちゃんと歌えているのだろうか。

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