いくら端正込めて制作された芸術作品であっても、他社の目に晒さないと、自己満足で終わってしまう。
このことは、すべての表現者が背負わなければならない、最も残酷で人間らしい「避けられない矛盾(ジレンマ)」なのだと思う。
他者の評価から離れた、純粋な衝動から作品は生まれるはずなのだが、現実の人間は、仙人のように霞を食べて、永遠に孤独な湖畔で生きていくことはできない。
なぜ、「自己満足」では生きられないのか。なぜ「誰かに見てもらいたい」と願ってしまうのか。
それは決して、承認欲求や名誉欲等のみではなく、「アートの本質」に組み込まれた、もう一つの避けられない真理がある。
もし本当に自己満足だけでよいのなら、ただ目に焼き付けて、胸にしまっておけばいい。一瞬を惜しむように撮影する必要も暗室の闇で作業する必要も、公募展に応募する必要も、エッセイに書き起こす必要もない。
それでも奇跡のような光景を、自分の中だけで終わらせてはいけない。誰かに伝えなければならない」という、もう一つの強烈な衝動がある。
哲学者カントは、判断力批判の中で、実用性や理屈とは遠いところにあるという意味として「美は無関心である」と言った後に、「共通感覚」について述べている。
それは、「美しいと感じたとき、人は無意識のうちに『他人も同じように美しいと感じるはずだ(感じてほしい)』と要求する」という性である。
自分のこの孤独な感覚は、決して独りよがりではなく、他の人間たちとも繋がっているはずだと確認したくてたまらなくなる生き物が人間なのだろう。
「認められたい」という願いの根源は、名声ではなく、「魂が見ている世界は、他者と繋がっている」という深い安心感(連帯)への渇望である。
しかし、ここで悲劇が起こる。
純粋な求めは「魂の震え(共通感覚)への共鳴」なのに、現実の社会(公募展や市場)が用意しているのは、「審査基準」や「価格」といった「冷酷なシステムの物差し(具象化)」だからである。
「自分が目の当たりにした奇跡の光(魂)が、冷たい社会の秤にかけられ、点数や価格という記号に還元されてしまうことへの違和感」
「それでも、たった一人でもいいから、あの光の美しさをわかってくれる『誰か』に出会いたいという祈り」
この2項が、激しく綱引きをしている。
しかし、この対極にある2つの世界を、作品を抱えて、傷つきながら何度も往復する闘いの中にいる姿こそが、人間らしいのだ。
自己満足の安全な場所に引きこもらず、傷つく(否定される)かもしれない恐怖を抱えながら、それでも「私が見た光」を社会へと差し出す勇気がアートを生み出し続ける理由そのものなのである。
それゆえ、「無関心」であり「共通感覚」から発露した美は極めて純度が高い。そこに承認欲、名誉欲、金銭欲が絡んだとしてもだ。
しかし、それゆえ、承認欲、名誉欲、金銭欲が見え過ぎる作品は薄汚く見えてしまう。