2026年9月3日木曜日

「絶滅写真」とスギモトノート


 東京国立近代美術館で開催されている杉本博司「絶滅写真」を7月に見てきた。

 ずっと以前(20年ほど前だと思う)、杉本氏についてよく知らなかった頃、どこかの美術館で「海景」の一点が展示されているのを見たことがあった。当時は「何もない海が写っているだけ」という感想しか抱けず、価値を見出せずにいた。しかし、「なんだこれは?」と覚えた確かな違和感と共に、杉本氏の名前は記憶の底に残り続けた。

 これまで杉本氏を自分の研究対象としてこなかったのは、写真家の枠に収まり切らない作家であったがゆえに、関心が向かなかったからなのだろう。


 近年になり美術史を学び始めると、現代美術を代表する日本人作家として再び杉本氏の名に出会った。写真技術を用いた現代美術とはどのようなものか――そう思い立ち、作品が掲載された著書や随筆を数冊手に取ってみた。

 そこにあったのは、圧倒的な知識の量だった。まさにリベラルアーツの宝庫のような頭脳を持つ作家だと感嘆した。現代美術への理解を深めると共に、杉本氏の作品はそうした知識や文脈(コンテキスト)の上に成り立っているのだと確信し、「海景」をはじめ、「劇場」「ジオラマ」「放電場」といったコンセプトを読み解いていった。


 杉本氏の作品は、単なる感情だけで鑑賞するものではない。深く対峙しようとするならば、鑑賞者にも相応の素養が要求される。文脈を知ってこそ真価を楽しめる作品なのだ。

 杉本氏が提示すること、そして考えていることは極めてシンプルである。しかし、それを実行に移すことがいかに困難であるかは容易に想像がつく。氏が制作プロセスをすべて公開し、「真似してもいい」と語りかけているのも、そうした自負の裏返しなのだろう。(当然、おいそれと真似できるはずもないのだが!)

 

 暗闇の展示室に浮かび上がる大判プリントを見つめていると、単なる「写真」を超えた何かを感じる。鑑賞しているうちに、ふと江戸川乱歩の小説『大暗室』が頭をよぎった。

 どこか不気味で退廃的な美しさ、そして「かつてそこに確かに存在したもの(あるいは巧妙に作られた虚構)」を凝視する冷徹な視線。像が結ばれる直前の「暗室」の闇そのものを思わせるその世界観は、杉本氏が意図しているかどうかは別として、僕にはその世界が江戸川乱歩の描く猟奇・怪奇の精神世界とどこかで響き合っているように感じられた。



 今回の上京の目的は、展示作品の鑑賞はもちろんのこと、同館3階の所蔵品ギャラリーに展示されている「スギモトノート(複製)」を確かめ、記録することだった。杉本氏が作品制作において重ねてきた試行錯誤の痕跡が、そこに綴られているはずだからだ。僕にとって必要となるページは、すべてカメラに収めてきた。


「やっぱり、ネガ現像液はD-23処方か。」


 あの「海景」の果てしない無限のグラデーションとシャドー部の粘りが、メトール単用の現像液から生み出されていたことは、以前随筆を読んで知っていた。

 この「D-23」現像液については、また別の機会に詳しく書くことにしたい。僕自身もD-23から派生した処方の現像液を愛用しているため、この薬剤とは実に長い付き合いになる。

 
杉本博司 著 「スギモトノート 銀塩写真技法」


 7月中旬、岩波書店から杉本博司著『スギモトノート 銀塩写真技法』が刊行された。 ノートに書かれた思考が随筆的に解き明かされている内容かと期待して手に取ったが、様相は少し違っていた。どちらかといえば、杉本作品の撮影現場や技術的な側面から当時を回想するような一冊であった。 それでも、一気に読み終えてしまったのは紛れもない事実である。

 二十年前、「何もない海」としか思えなかった一枚の写真が、いまになってこれほど多くのものを僕の中から引き出してくる。

 あのとき感じた「なんだこれは?」という違和感は、どうやら間違っていなかったらしい。

 作品を理解するとは、作品に知識を付け足すことではなく、過去の自分が感じていたものを後から別の言葉で発見することなのかもしれない。