市の美術展で、市長賞をいただいた。
ゼラチンシルバープリントの技法で制作したものの、これは写真作品ではない。
一昨年、滋賀県の霊山にある林道をバイクで走り、廃村を見て回った。その中の一つで、谷間に数軒の廃屋が取り残された、美しい集落に出会った。
その集落の一軒をよく見ると、風雪にさらされ、炭の煙らしきものでまだらになった壁があった。そこには、今となっては痕跡でしかない、何かの文字が書かれていた。
時間の蓄積は、なんと美しい変化を見せてくれるのだろう。僕は大判カメラをバイクに積み、幾度となくこの壁を撮影するために訪れた。
通ううち、至近距離で熊の咆哮を聞き、樹木が揺れるのを目撃した。恐怖を覚えたことに加え、撮影にもある程度満足していたため、この集落跡に通うのは終わりにすることにした。
撮影済みのフィルムを現像し、まずまずの階調を得たネガを作ることができた。
ここまでで、半年ほどかかった。さて、ここからどうしたものか。
写真作品は平面作品であり、壁もまた平面である。高画質フィルムの特性を生かし、あたかも壁がそこにあるかのような写真作品にしようと考え、暗室で何枚も引き伸ばしてみた。
しかし、出来上がったのは、黒いまだら模様が写り込んだだけの写真だった。そこからは、「壁」という概念そのものが消え失せていた。
撮影時、僕はこの壁に付随する建物の基礎や柱、屋根を目にしている。壁はそうした構造体の一部であり、他の部位から切り離されてしまえば、もはや「壁」としての同一性を保てなくなるのだ。
さらに言えば、一般的な写真表現では、目の前に実在する事物に反射した光がレンズを通り、フィルム、あるいは撮像素子に記録される。その記録を印画紙などに出力し、鑑賞者は再現された像と自身の認識とを照らし合わせ、そこに何が写っているのかを概念化する。
ロラン・バルトが『明るい部屋』で論じたように、写真には「それはかつてあった」という現実性が刻まれている。これこそが、写真表現を成立させる重要な条件なのだろう。
しかし、僕が焼いた、もはや壁としての同一性を失ったまだら模様の印画からは、「それはかつてあった」という事実すら窺い知ることができない。
山奥でひっそりと朽ちていく廃村の壁――そうしたノスタルジーは、この作品には微塵も存在しない。
ただ、時間の痕跡だけが、テストピースから感じ取れた。
これは写真なのか?
そこから問い直さなくてはならなかった。
映像(イメージ)としての作品でないのなら、物体として作ればいい。壁の同一性が消失しているのなら、時間の痕跡そのものを表現すればいい。
そのとき僕は、今回に限っては、映像表現の呪縛から自由になれると感じた。
これは、ただ時間の痕跡が創り出した模様だ。ここに、目に見えないはずの「時間」を可視化しよう。
写真は、時間の経過を記録することはできる。しかし、「時間そのもの」という抽象概念を、像として再現することはできない。ゼラチンシルバープリントの技法を用い、漂白液を扱うことで、時間が揺らぎ、漂う様を物質として表現できるはずだ。
そして、この作品はあくまでも「もの(物質)」である。展示の際に額装してしまうと、途端に「写真らしさ」が顔を出してしまう。木製パネルに印画紙を直貼りし、板と一体となった「もの」としての存在感を目指す必要があった。そのためには、パネルの細工にも工夫が求められる。
僕はホームセンターで木材と塗料を吟味し、木材を切り出して自作の木製パネルを制作した。
だが、印画紙の直貼りは難航を極めた。湿度によって印画紙がたわんでしまうのだ。強粘着テープで貼り付けた印画紙は、剥がして貼り直すことはできない。
失敗だった。
これがPCでのデジタルな処理であるならば、Ctrl+Zのコマンドで戻ることができるのだが、この作業にはそんな魔法は存在しない。
暗室で再度引き伸ばしを行い、ベニヤを切り、木製パネルを作り直した。強粘着テープの貼り方にも工夫を重ね、ようやく作品が完成した。
写真技法を使いながらも、写真ではないこの作品。作ること自体が非常におもしろく、僕は数か月間、ただ制作に没頭することができた。
これは写真ではない――そう考え、彫塑工芸部門に応募してみた。そこには、彫刻や塑像、能面、陶芸などが並ぶ。
僕の作品は分野違いとみなされ、それだけで審査対象外、いわば門前払いになる可能性も高いと思っていた。しかし、もし現代美術の文脈を解する審査員がいるならば上位入賞するのではないか――そんな予感は、現実のものとなった。
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