2025年10月28日火曜日
花を撮る時間
2025年10月21日火曜日
雪の原
岐阜市の写真ギャラリーpieni onniで、中判写真展に参加する。期間は10月22日(水)から26日(日)まで。ZINEも用意することにした。
今回の展示作品の「雪の原」は、ニューマミヤ6で撮影した五枚組で、冬の奥伊吹。人の気配が遠のいた雪原に、ただ静かに佇む、草木の姿である。
冬の奥伊吹に通い始めたのは、30年ほど前になる。はじめの頃は、雪国の暮らしを撮影していた。それに飽きると、一番奥の集落から、麓の集落に向かって、雪を踏みしめてひたすら歩き、その道すがらの風景を撮影するようになった。
心の中には、北海道のような広大な雪原を背景にした孤高の樹木のイメージがある。しかし、身近な場所にはそんな雄大な風景はない。自然風景については、何回も通わないと満足のいく撮影結果が得られないので、冬の北海道に数日間滞在したくらいで、撮影に成功するとは到底思えない。それなら、この身近な奥伊吹の野原で何か見つけるしかない。
「広大な雪原を背景にした樹木の風景」は見つけることは出来なかったが、人里近くの野原には、雪が積もっていて、そこから草木が顔を覗かせている。それらは、冬枯れの果ての姿であったり、静かに春の準備を勧めている姿であったりする。
雪の中を歩く静寂の時間。ごく稀に、奇跡のような瞬間が訪れる。それは、草木の形、その配列、雪の積もり具合、そしてその時の光の状態、これらが完全に調和した時にのみ現れる存在である。数日後に、同じ場所を訪れてみても、雪の状態が変わっていて、違う存在になってしまっている。
その断片を拾い集めたのが「雪の原」である。
以下、ギャラリーで作品に添えた説明文。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
雪の原
私の作品シリーズ「雪の原」は、雪に覆われた風景から浮かび上がる植物の繊細な形態を捉えたモノクローム写真です。
雪に埋もれた植物の枝や茎は、白い背景に浮かび上がる繊細な線として抽象画のように現れ、生命の儚さと強さを同時に表現しています。
雪原から突き出た細い茎や枝は、まるで白紙に書かれた漢字や古代の象形文字のように見えます。それらは自然が描いた詩のようであり、私たちに解読を促す暗号のようでもあり、自然界に存在する多様性と統一性の調和を示しています。
この作品群は、見過ごされがちな日常の風景の中に潜む美を発見する試みでもあります。雪に覆われた荒涼とした風景は一見すると単調に見えますが、注意深く観察すると、そこには繊細で力強い生命の痕跡が刻まれており、来るべき春への約束を象徴しています。
「雪の原」は、自然の持つ静かな表現力と、人間との関係性、そして時間の流れについての黙想を促す抒情詩です。
2025年10月18日土曜日
美術展
秋はあちこちの自治体で公募美術展が開催されており、僕も数年ぶりに応募してみたところ、賞をいただくことができた。
地元自治体系公募展の審査員の顔ぶれは、その地域で長く活動している方が毎年審査員を担っているケースが多いような気がする。多くの場合、審査員は地元写真サークルの指導者であり、審査員自身もそういった写真サークルの出身で、地元自治体美術展に応募を続けて入賞を重ね、審査員になっていったケースがほとんどである。
そういった形の地元自治体美術展は、過去の入賞作品や審査員の作品を見ていると、前衛的な表現は稀である。おそらく、応募しても選考の段階で落選し、展示さえされない場合が多いのではないか。それに、応募する人たちは地元写真サークルに属していることが多く、指導員から前衛的な表現は教えてもらっていないのだろうと推察される。そして、サークルの例会に前衛的な作品を持ち込んでも評価されないため、作風がそこで指導者によって矯正されてしまうのだ。もちろん、審査員も悪気があって前衛的な作品を落としているわけではなく、自分たちの「写真」とは異質であるため評価ができないのだ。
そんな地方自治体系美術展とは対照的に、毎年審査員が変わり、地元出身ではない著名な写真家や評論家等が審査員を務める公募展は、前衛的な表現のオンパレードであり、どんな作品を出品すれば入賞できるかは予測不可能である。そんな場では、地方自治体系公募展で評価されやすい作品は、あまりにも普通過ぎて目立つことはないため埋没してしまう。
端的に言えば、地方自治体系公募展は枯れた表現が入賞しやすく、毎年審査員が変わる著名写真家等が選ぶ公募展は、前衛的な表現が入賞しやすい傾向にあると思う。
地域に根ざした写真文化の継承という意味で地方公募展には価値があるが、同時に表現の多様性が制限される構造的な問題もはらんでいる。
以前のエントリーで、「創作において外部の基準に囚われることは本質的ではない」と書いた。それは、自分自身で納得がいかないものを作ることはない、ということである。枯れた表現、前衛的な表現、いずれも制作時に没頭できるのであれば、外部からヒントを得たとしても、それは自らの内側から生まれるものである。「囚われる」というのは、作りたくもないものを入賞目当てに作る、という行為である。それは義務的な作業であり、何も得るものはない。対価が発生するわけでもないので労働ですらない。結果として入賞し、そこで賞金を手にすることができるかもしれないが、それが何になるのか。
枯れた表現と前衛的表現に優劣があるわけではない。僕自身、両方に興味がある。ただ、今のところ、前衛的表現の作品は、自分のためにアルバムにずっと残しておきたい作品ではない。数十年後に見直して、いいなと思えるのはやっぱり持続的な枯れた表現だと思うのだ。
展示するために、大きな印画紙で前衛的な表現を用いて制作するのはとても充実感を感じる。ただ、あくまでも自分にとって常に新しい表現を発見する作業になり持続性が困難であり、アイデアがないと創り出すことができない。それでも、写真以外のことから着想を得たり、暗室で手を動かしているうちに思わぬ発見をする。
だから、何かを作るのはおもしろい。
2025年10月13日月曜日
ベタ焼き
135サイズのネガフィルムは、1カットあたりの面積が狭くかつネガ像なので、どんな状態で写っているかネガを透かして見ていてもよく分からない。
そのため、印画紙の上にネガを並べて、ガラスで圧着し、上から光を当てて、ベタ焼きを作る。コンタクトプリントとも呼ばれてる。
中判や大判は、その大きさ故にネガを見れば分かるので、ベタ焼きを作る必要はない。
135サイズでも、どうしてもベタ焼きを作らないといけないわけではないが、自分の軌跡として、必ず作るようにしている。自宅に暗室を構えた時からなので、もう四半世紀はこの習慣を続けている。
最初の頃は、
「何が写っているかのただの確認なので、ベタ焼きのクオリティなんてどうでもいい。」
と思い、そのままの気持ちで作業をしていたので、今から見ているとひどいできになっている。特に初期の頃は、指紋の跡が現像されていたり、極端に露光の過不足があったり、現像ムラまであったりする。今でも、所詮は確認用プリントという気持ちがどこかに残っていて、多少のことならやり直すこともあまりない。
最近、あちこちのラボの価格表を見ていたら、ベタ焼きでも結構なお値段になっている。印画紙や薬剤、人件費が高くなったためであろう。
僕は、自分でやっているのでそこまで贅沢なものを作っているという感覚はなかったが、もう少し緊張感を持って、ベタ焼きを作らないといけないと思った。
ベタ焼きは、撮影時の露光とネガ現像強度が一定であれば、焼くときの露光時間は常に一定となる。そこが問題なく出来ていれば、あとは単純作業であり、そこに創造性はない。
ただ、出来上がったベタ焼きを見ていると、その日の時間が目の前に蘇ってくるようだ。僕にとってベタ焼きは、単なる確認作業を超えた、もう二度と戻ってこない時間との対話なのかもしれない。
2025年10月7日火曜日
空を見つける
前回のエントリーに続いて、今回も「空」関係の話。
写真活動は煩悩にまみれていると思う。これを読んでいるあなたもきっとそうだ。どんな煩悩かを、分析していると埒が明かないし、発見したくもない自分を自分を垣間見ることなりかねないのでやめておいた方が賢明だ。
そんな煩悩まみれのあなたでも(僕もかな💦)、心が解き放たれる瞬間がきっとある。
京都学派の西田幾多郎が提唱した、思慮分別を介さない「主客未分」の純粋経験こそが、仏教の「空」の概念に通じている。ちなみに、銀閣寺近くの疎水沿いの「哲学の道」の哲学者は、この西田先生のことだから、歩くときは忘れないようにしよう。
思慮分別を介さない「主客未分」の純粋経験とは、西田幾多郎の哲学における中心概念であり、 主体(私)と対象(外的な何か)がまだ分かれていない、一体となった直接的で根源的な経験状態を指す。これは仏教の「空」の概念と通底し、両者ともに、分別による固定的な二元論を超え、存在の本質に迫る直接的な知や体験のあり方を示唆していると言る。
「空」の概念には、様々なアプローチがあると思われるが、前回のエントリーとは違う角度から「主客身分」の純粋経験は、説き明かしている。
撮影しているとき、部屋で作品制作しているとき、鑑賞しているとき、対象に没頭するのは純粋経験であり、雑念がなく他事から心が解き放たれた状態である。
だから、そんな幸せな時間を過ごすことが出来たのだから、結果としてうまく作品が出来なかったとしても、無駄ではないと思っている。それに、確実にできることなんて、ただの作業なので没頭なんか出来ない。できるかどうか分からないことをやっているから没頭できるのだと思う。

