2025年10月18日土曜日

美術展

  秋はあちこちの自治体で公募美術展が開催されており、僕も数年ぶりに応募してみたところ、賞をいただくことができた。

 地元自治体系公募展の審査員の顔ぶれは、その地域で長く活動している方が毎年審査員を担っているケースが多いような気がする。多くの場合、審査員は地元写真サークルの指導者であり、審査員自身もそういった写真サークルの出身で、地元自治体美術展に応募を続けて入賞を重ね、審査員になっていったケースがほとんどである。

 そういった形の地元自治体美術展は、過去の入賞作品や審査員の作品を見ていると、前衛的な表現は稀である。おそらく、応募しても選考の段階で落選し、展示さえされない場合が多いのではないか。それに、応募する人たちは地元写真サークルに属していることが多く、指導員から前衛的な表現は教えてもらっていないのだろうと推察される。そして、サークルの例会に前衛的な作品を持ち込んでも評価されないため、作風がそこで指導者によって矯正されてしまうのだ。もちろん、審査員も悪気があって前衛的な作品を落としているわけではなく、自分たちの「写真」とは異質であるため評価ができないのだ。

 そんな地方自治体系美術展とは対照的に、毎年審査員が変わり、地元出身ではない著名な写真家や評論家等が審査員を務める公募展は、前衛的な表現のオンパレードであり、どんな作品を出品すれば入賞できるかは予測不可能である。そんな場では、地方自治体系公募展で評価されやすい作品は、あまりにも普通過ぎて目立つことはないため埋没してしまう。

 端的に言えば、地方自治体系公募展は枯れた表現が入賞しやすく、毎年審査員が変わる著名写真家等が選ぶ公募展は、前衛的な表現が入賞しやすい傾向にあると思う。

地域に根ざした写真文化の継承という意味で地方公募展には価値があるが、同時に表現の多様性が制限される構造的な問題もはらんでいる。

 以前のエントリーで、「創作において外部の基準に囚われることは本質的ではない」と書いた。それは、自分自身で納得がいかないものを作ることはない、ということである。枯れた表現、前衛的な表現、いずれも制作時に没頭できるのであれば、外部からヒントを得たとしても、それは自らの内側から生まれるものである。「囚われる」というのは、作りたくもないものを入賞目当てに作る、という行為である。それは義務的な作業であり、何も得るものはない。対価が発生するわけでもないので労働ですらない。結果として入賞し、そこで賞金を手にすることができるかもしれないが、それが何になるのか。

 枯れた表現と前衛的表現に優劣があるわけではない。僕自身、両方に興味がある。ただ、今のところ、前衛的表現の作品は、自分のためにアルバムにずっと残しておきたい作品ではない。数十年後に見直して、いいなと思えるのはやっぱり持続的な枯れた表現だと思うのだ。

 展示するために、大きな印画紙で前衛的な表現を用いて制作するのはとても充実感を感じる。ただ、あくまでも自分にとって常に新しい表現を発見する作業になり持続性が困難であり、アイデアがないと創り出すことができない。それでも、写真以外のことから着想を得たり、暗室で手を動かしているうちに思わぬ発見をする。

 だから、何かを作るのはおもしろい。


2025年10月13日月曜日

ベタ焼き


 135サイズのネガフィルムは、1カットあたりの面積が狭くかつネガ像なので、どんな状態で写っているかネガを透かして見ていてもよく分からない。

 そのため、印画紙の上にネガを並べて、ガラスで圧着し、上から光を当てて、ベタ焼きを作る。コンタクトプリントとも呼ばれてる。

 中判や大判は、その大きさ故にネガを見れば分かるので、ベタ焼きを作る必要はない。

 135サイズでも、どうしてもベタ焼きを作らないといけないわけではないが、自分の軌跡として、必ず作るようにしている。自宅に暗室を構えた時からなので、もう四半世紀はこの習慣を続けている。

 最初の頃は、


「何が写っているかのただの確認なので、ベタ焼きのクオリティなんてどうでもいい。」


と思い、そのままの気持ちで作業をしていたので、今から見ているとひどいできになっている。特に初期の頃は、指紋の跡が現像されていたり、極端に露光の過不足があったり、現像ムラまであったりする。今でも、所詮は確認用プリントという気持ちがどこかに残っていて、多少のことならやり直すこともあまりない。

 最近、あちこちのラボの価格表を見ていたら、ベタ焼きでも結構なお値段になっている。印画紙や薬剤、人件費が高くなったためであろう。

 僕は、自分でやっているのでそこまで贅沢なものを作っているという感覚はなかったが、もう少し緊張感を持って、ベタ焼きを作らないといけないと思った。

 ベタ焼きは、撮影時の露光とネガ現像強度が一定であれば、焼くときの露光時間は常に一定となる。そこが問題なく出来ていれば、あとは単純作業であり、そこに創造性はない。

 ただ、出来上がったベタ焼きを見ていると、その日の時間が目の前に蘇ってくるようだ。風の僕にとってベタ焼きは、単なる確認作業を超えた、もう二度と戻ってこない時間との対話なのかもしれない。

2025年10月7日火曜日

空を見つける

 前回のエントリーに続いて、今回も「空」関係の話。

 写真活動は煩悩にまみれていると思う。これを読んでいるあなたもきっとそうだ。どんな煩悩かを、分析していると埒が明かないし、発見したくもない自分を自分を垣間見ることなりかねないのでやめておいた方が賢明だ。

 そんな煩悩まみれのあなたでも(僕もかな💦)、心が解き放たれる瞬間がきっとある。

 京都学派の西田幾多郎が提唱した、思慮分別を介さない「主客未分」の純粋経験こそが、仏教の「空」の概念に通じている。ちなみに、銀閣寺近くの疎水沿いの「哲学の道」の哲学者は、この西田先生のことだから、歩くときは忘れないようにしよう。

 思慮分別を介さない「主客未分」の純粋経験とは、西田幾多郎の哲学における中心概念であり、 主体(私)と対象(外的な何か)がまだ分かれていない、一体となった直接的で根源的な経験状態を指す。これは仏教の「空」の概念と通底し、両者ともに、分別による固定的な二元論を超え、存在の本質に迫る直接的な知や体験のあり方を示唆していると言る。

 「空」の概念には、様々なアプローチがあると思われるが、前回のエントリーとは違う角度から「主客身分」の純粋経験は、説き明かしている。

 撮影しているとき、部屋で作品制作しているとき、鑑賞しているとき、対象に没頭するのは純粋経験であり、雑念がなく他事から心が解き放たれた状態である。

 だから、そんな幸せな時間を過ごすことが出来たのだから、結果としてうまく作品が出来なかったとしても、無駄ではないと思っている。それに、確実にできることなんて、ただの作業なので没頭なんか出来ない。できるかどうか分からないことをやっているから没頭できるのだと思う。