2026年1月20日火曜日
ローライコード4
2026年1月14日水曜日
ペンタックスSPと歩む豊かな写真ライフ
普段はマニュアルフォーカスの機械式一眼レフ、ニコン New FM2 を愛用しているが、万が一のサブ機として、 ペンタックス SP を購入した。これが、4年前のことになる。
ただ、これは自分でもかなり強引な言い訳だと振り返ってみると思った。New FM2はすこぶる調子がいいし、仮に故障したとしても、修理中に代わりを務めるカメラは既に手元にある。結局のところ、そんな理屈はどうでもよくて、New FM2よりも20年ほど前の時代のこのカメラを、ただ使ってみたかっただけなのだろう。
ペンタプリズムにアクセサリーシューがない、すっきりとしたデザイン。今となっては珍しい「絞り込み測光」。そして汎用性の高いM42マウント。実際に手に取ってみると、巻き上げレバーの手応えやシャッターを切ったときの感触がとても心地よい。その質感は、僕が使っている現行品のライカ M-A にも決して劣っていないと感じる。
ただ、やはりファインダー像は、New FM2よりもかなり暗くざらついている印象はある。まだ発展途上のカメラであったことは否めない。
かつてのベストセラー機ということもあり、中古市場には今も豊富に出回っていて、価格も手頃だ。55mm F1.8のレンズ付きで1万円ほど。135mm F3.5は不人気ゆえか1,000円くらい。少し高価な35mm F2も1万円ほどで手に入った。
オールドレンズの定番といえば「Super-Takumar」が人気だが、僕はあえて次世代の「Super-Multi-Coated Takumar」で揃えた。これらはいわゆる「放射能レンズ」で、硝材に酸化トリウムが使われているため、入手時はかなり黄色く変色(黄変)していた。特に35mm F2の変色はひどいものだった。
僕は黒白(モノクロ)フィルムしか使わないが、できるだけ普通のレンズとして使いたかったので、UVライトを二日間ほど照射して黄変を除去した。それでも完全には消えず、わずかに色が残っているが、それも味だろう。
SP用の水銀電池「H-B」はすでに生産終了しているため、関東カメラサービスのアダプターを導入した。このアダプターは電圧を調整してくれる優れものだが、いかんせん60年前のカメラである。露出計の精度を確認したところ、低輝度側で2段ほどズレが生じていた。しかし、極端に暗い場所で撮ることは稀なので、実用上の問題はない。
フィルムカメラを安価に楽しむには、これ以上ない選択肢かもしれない。100ft(フィート)の長巻から切り出した1本あたり500円前後の黒白フィルムを使い、自分で現像してスマホでネガスキャンする。そんな工夫を凝らす時間も含めて、豊かな写真ライフを味わえそうだ。
ただ、最初からこの境地にはたどり着ける者は多くはない気がする。
2026年1月10日土曜日
在庫という名の安心
ここのところ、まち歩きのスナップが楽しくて、135フィルムをよく使っている。
2026年1月6日火曜日
認識を助けるための、忘却
2026年1月4日日曜日
ノイズに耳を澄まし、目を凝らす
2025年12月29日月曜日
認識の枠とストリートフォトグラフィー
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PENTAX SP Super-multi-coated Takumar 55mm f1.8
Fomapan200(EI100) Stoeckler Two-bath Film Developer
SILVERCHROME FLEXGRADE RC Matt
ストリートフォトグラフィーとは、まちを歩き、偶然に現れた現実を即時に撮影したもの、と定義づければよいだろう。
先人たちの巨匠の作品には、人が写っている場合が多く、そこには人間ドラマがあり、いわゆる決定的瞬間が写し取られていた。
二十一世紀に入り、インターネットが普及し、誰もが撮影した画像を公衆の面前に晒すことが可能になった頃から、写真を撮る人々は肖像権に対して、より神経質になっていった。それは、社会全体が「ホワイト化」していく流れとも無関係ではないだろう。
そのような情勢の中で、人が写り込んだ写真を撮影する者は、次第に減少していった。
新聞の三面記事を眺めていると、盗撮で逮捕という報道を頻繁に目にする。こちらにその意図がなかったとしても、いつ自分が犠牲の祭壇にまつり上げられるか分からないと思えば、人を撮ることに慎重になるのも無理はない。
結果として、人が写り込んでいたとしても個人が特定できない状態であったり、撮影対象そのものが都市風景や物体へと移行していった。僕自身も、カメラを提げてまちを歩くときは、自然とそのような撮影スタイルになっている。
PENTAX SP Super-multi-coated Takumar 55mm f1.8
Fomapan200(EI100) Stoeckler Two-bath Film Developer
SILVERCHROME FLEXGRADE RC Matt
カメラという装置を用いてまちを撮影する行為は、絵画などの表現手法とは異なり、「無意識」と直結、もしくはより近い領域で作用しているのではないだろうか。
絵画は、構図や色彩の選択など、理性が介在する余地が大きい。ジャクソン・ポロックは、理性を排除し無意識と接続するためにアクションペインティングという手法を採ったが、それは偶然性に身を委ねたというよりも、理性ではなく無意識によって制御された行為であったと言える。
感性、悟性、理性の順に意識は深まっていくが、ストリートフォトグラフィーは、出会い頭に撮影が完了する表現であり、その多くは感性の領域で完結する。
一方で、風景や静物に取り組む際には、構図や露光時間を吟味するなど、理性の働きが大きく関与する。そこには、写真表現の別の位相が存在している。
ストリートフォトグラフィーは、感性の無意識領域で世界にアクセスする必要がある。そのため、以前のブログに書いたように認識の枠を揺さぶるための内面の再編成、意識的な努力と深い内省が不可欠だと改めて思う。
哲学は、答えではなく問いである。知識ではなく道具である。と、つくづく感じる。
2025年12月27日土曜日
穏やかな執着

現代美術家・村上隆の著書『芸術闘争論』の中で、彼は鑑賞の四要素として次のものを挙げている。
① 構図
② 圧力
③ コンテクスト
④ 個性
この中で、②の「圧力」とは何だろう、と引っかかった。色彩や描かれている事物の強さのことだろうか。
どうもそういう意味ではなく、村上氏はそれを「執着力」や「執念」として説明している。もう少し良くするにはどうすればいいのかを毎日自問自答し、自分の作品を肯定しながら弱点を補完し続ける。その持続力こそが圧力なのだという。
そう言えば、ある美術展の講評で、審査員が「どこまでやり切ったかは、作品を見れば分かる」と話していたことを思い出した。
しかし、執着というものは、方向性を間違えれば、不幸の始まりではないだろうか。
もしその執着や執念の源泉が、「人に見せて評価を得たい」「売らなければならない」「有名になりたい」「人に勝ちたい」といったエゴにあるのだとしたら、それを達成できなかったとき、精神的にも金銭的にも疲弊するだけなのではないか。
もちろん、そうした方向性で制作せざるを得ない立場の人がいることは理解できる。村上氏がそうだとは限らないが。
僕にとって写真は、「余暇を楽しむための活動」、いわばレジャーの一つだ。だから、それらのことは、どちらでもいい。そこには強い執着がない。突き詰めていけば、人に見せなければならないという縛りすらないし、他に何か見つかれば写真を中断することもある。
完成したら、作品をストレージボックスにしまって終わりでもいいし、機会があれば展示してもいいし、どこかの公募展に出品してもいい。
ここであらためて、執着や執念とは何なのかを考えてみた。
僕の場合、向き合うべきなのは、結果から得られる価値への執着ではなく、プロセスそのものに対する精進ではないか、と思う。昨日できなかったことが今日できるようになる。それだけで嬉しいし、それは結果として、緩やかに作品の質にもつながっていく。
何より、そうした姿勢での制作は、フローや純粋経験の状態を生み、幸福に満たされていて、そこに苦しみはない。
そもそも、エゴへの執着が透けて見えるような作品は、鑑賞対象としても、あまり見たいとは思えない。ゴッホやゴーギャンは、執着の末にボロボロになり、最期の時を迎えたが、制作している時間だけは、そうした苦しみから解き放たれていたのだと、僕は思いたい。
僕は、執着を燃やし尽くして何かを残すよりも、執着を手放して、穏やかに生きていたい。そして、そんな在り方がにじむ作品を作れたらいい。
もっとも、これもまた、苦しみから逃れるための一種の執着なのかもしれないが。




