2026年8月29日土曜日

「この声で歌う」ことしかできない

 


 8月末の残暑が厳しい折、京都写真美術館で開催されている、多田洋写真展「無頼」を見に行った。

 そこには、岐阜の街角を切り取ったスナップや、抽象的な影と形をモチーフにした30点のゼラチンシルバープリントが、たしかな息遣いとともに並んでいた。

 多田さんは、かつて写真月刊誌の月例コンテストという激戦区で、毎月のように紙面を飾っていた実力者である。その過酷な場で勝ち残り、評価され続ける背景には、並大抵ではない年月と凄みが宿っている。それほどにまとまった数のオリジナルプリントを直に眼差すことができたのは、非常に得難い時間だった。

 作品群と向き合う中で、僕の心を強く捉えて離さなかったものがある。それは、画面全体に漂う絶妙な「粒子感」だった。おそらく多田さんご自身は、ことさらそれを意識してはいないのかもしれない。

 しかし、そこには僕自身の作品にはない、ざらりとしながらも乾いた手触りがあり、ただただ羨望の念を抱かずにはいられなかった。

 ふと、写真家・内田ユキオさんのエッセイ『ライカとモノクロの日々』にある、「この声で歌う」という一節が脳裏をよぎる。

 ゼラチンシルバープリントにおけるネガというものは、選ぶフィルムや光の測り方、現像液の処方や希釈、そしてタンクを揺らす攪拌のリズムに至るまで、その人の息遣いや癖が否応なく染み込み、唯一無二のトーンとなって立ち現れる。あの美しい粒状性も、きっとその結晶なのだ。

  それは歌手にとっての「声」によく似ている。どれほど他人の声が魅力的に響こうとも、それを自分の喉に移植することはできない。歌手はみな、己に与えられた声で歌い切るしかないのである。

 表面的なプロセスを真似ることはできるだろう。しかし、それで奏でられるのは決して「自分」ではない。

 果たして、僕は、自分の声でちゃんと歌えているのだろうか。

2026年8月25日火曜日

失くした延長リンクとブリコラージュ

 


 シャッターの油が固着せぬよう、定期的に絞りを動かし、空シャッターを切る。そのために取り出したレンズから、あるはずの重要部品が消えていた。いつか紛失するのではないか――この外れやすい「延長リンク」に対して抱いていた予感が、最悪の形で的中した瞬間だった。

 これほど小さなパーツなど、単体で売られているのを見たことがない。もし修理扱いで取り寄せようものなら、そのサイズに見合わない高額な費用がかかることは火を見るより明らかだった。

 無いなら、作るしかない。暗室でお馴染みの覆い焼き用ワイヤーをニッパーで切り出し、慎重にクランク状へ曲げてみる。すると、ジャストフィットする代用品が完成した。仕上げに自転車の虫ゴムを被せ、脱落防止の工夫も施す。

 それから一か月ほど経った頃だろうか。撮影現場で冠布をバサバサとあおった拍子に、足元へポロリと金属片が落ちた。紛失したと諦めていた、あのオリジナルの延長リンクだった。

 苦笑いしつつも、妙な充足感があった。たとえ再びこれを失う日が来ようとも、僕にはいつでも自らの手で引き戻せる「技術」を手に入れたのだから。

※「ブリコラージュ」社会人類学者のレヴィ=ストロースがで用いた概念で、ありあわせの物を工夫して使う思考。


  

2026年8月18日火曜日

新版 写真論


 あまりにも有名なスーザン・ソンタグの『写真論』だが、今まで読んだことがなかった。最近、新版が発売されたので読んでみた。

 読んではみた。半分くらいまでは。

 しかし、断片的には分かるものの、通して読んでみると僕には何が書いてあるのか、まったく分からなかった。訳文が難解なうえに、僕の読解力が不足しているのか、難しい単語が多いわけでもないのに、さっぱり頭に入ってこない。

 名著と言われている本なのに、まったく理解できずに断念してしまうのは悔しくて仕方がないが、今の僕には無理なのかもしれない。

 写真家や画家が書いた本は生の感覚や身体性を伴うため内容が理解できるのだが、評論家や学者の文章は、他人の思想・文学・歴史・社会現象を大量に引きながら、言葉で言葉を重ねる世界を展開しているような気がする。僕とは持っている前提知識の量があまりにも違いすぎるうえに、思考プロセスも別物なのだ。

 もしかしたら、ソンタグの『写真論』に書かれていることは、シンプルなことなのかもしれない。今は、この本に時間を費やすことは避けるが、またいつか読んでみようと思う日が来るのかもしれない。

2026年8月13日木曜日

写真展の片隅で考える平和

  


 岐阜市のギャラリー「pieni onni」で開催されている公募写真展「PEACE」に参加している。会期は8月16日(日)まで。

 この季節に「平和」へと思いを寄せると、先の大戦から戦後何年といった報道や各地での式典を目にする。誰もが戦争のない世の中を祈るが、世界のどこかでは常に紛争が続いており、戦争がなくなる気配はない。なぜなくならないのかを考え始めると長くなりそうなので、今日は考えないでおくことにする。

 「平和」という文字から連想されるのは、きっと「平らかな和」なのだろう。平穏で和やかな日々が続くなら、それは間違いなく誰にとっても心の中に平和が存在している状態だ。

 しかし人は生きているだけで、さまざまな試練に見舞われ、不安や心配事が絶えない。身体の健康と精神の平静を重んじるエピクロスの快楽主義を地で行くような生き方ができればいいのだが、人は自分本位だけでは生きられないため、それもなかなか難しい。 せめて、人生のところどころに現れる貴重な「平和」を満喫したいものだ。

 今回は公募展であり、個々の作品はそれぞれ独立しているものの、テーマが決まっているため会場全体がひとつのコレクティブアート作品のようにも感じられる。会期中は毎日懇談会が開催されており、作品を眺めたり言葉を交わしたりして過ごす時間は、まさに「平和」そのものである。

2026年8月11日火曜日

黒の物語

 ヘイリー・エドワーズ=デュジャルダン (原著), 丸山 有美 (翻訳)「色の物語 黒」


 黒とはいったい、何だろうか。

 写真が捉えるもの。それは光源から発せられた光子という名の素粒子が、物体に跳ね返り、レンズを通ってフィルムへと到達した軌跡だ。その光がフィルムの記録再現幅(ラティチュード)に収まったとき、初めて像として結実する。

 物質によって光子の反射率は異なり、その数値が低ければ低いほど、眼前に現れる黒は深さを増していく。となれば、究極の黒とは、光さえも逃しはしないブラックホールの色を指すのだろうか。


 人類は、この「完全な黒」を求めて、悠久の時を費やしてきた。

 歴史を紐解けば、必ずフランスのラスコー洞窟の壁画に行き当たる。当時の人々は二酸化マンガンを用い、闇を描こうとした。その後も木炭や鉄など、身近な物質を媒介に、人類は黒を「発明」し続けてきたのである。その探求の結晶は、2014年に登場したナノ技術による最新の黒にまで至る。数千年もの間、黒を作り出すことは、人にとってそれほどまでに困難で、抗いがたい魅力を持つ挑戦であったに違いない。


 19世紀に写真が登場した当初、その色は「黒」ではなく「茶色」だった。当時の技術では、まだ完全な黒を定着させることができなかったのだ。よくある誤解として、「古い白黒写真が劣化して茶色くなった」と思われがちだが、そうではない。それらは、最初から琥珀の色調を帯びて生まれてきたのである。

 その後、感光材料の改良が進み、銀粒子の緻密な制御が可能になったことで、写真はようやく、ビロードのような深い黒を手に入れた。


 人類が数千年かけてようやく到達したこの漆黒を、僕は今、あえて再び「茶色」へと引き戻そうと試みている。硫黄を操り、化学変化を媒介として、銀の黒を温かな褐色へと変容させる。それは、効率や進歩という名の時間軸を逆行する、僕自身の物語なのかもしれない。

2026年8月5日水曜日

美の共通感覚と、表現者のジレンマ

 いくら端正込めて制作された芸術作品であっても、他社の目に晒さないと、自己満足で終わってしまう。

 このことは、すべての表現者が背負わなければならない、最も残酷で人間らしい「避けられない矛盾(ジレンマ)」なのだと思う。


 他者の評価から離れた、純粋な衝動から作品は生まれるはずなのだが、現実の人間は、仙人のように霞を食べて、永遠に孤独な湖畔で生きていくことはできない。


 なぜ、「自己満足」では生きられないのか。なぜ「誰かに見てもらいたい」と願ってしまうのか。

 それは決して、承認欲求や名誉欲等のみではなく、「アートの本質」に組み込まれた、もう一つの避けられない真理がある。


 もし本当に自己満足だけでよいのなら、ただ目に焼き付けて、胸にしまっておけばいい。一瞬を惜しむように撮影する必要も暗室の闇で作業する必要も、公募展に応募する必要も、エッセイに書き起こす必要もない。

 それでも奇跡のような光景を、自分の中だけで終わらせてはいけない。誰かに伝えなければならない」という、もう一つの強烈な衝動がある。

 

 哲学者カントは、判断力批判の中で、実用性や理屈とは遠いところにあるという意味として「美は無関心である」と言った後に、「共通感覚」について述べている。

 それは、「美しいと感じたとき、人は無意識のうちに『他人も同じように美しいと感じるはずだ(感じてほしい)』と要求する」という性である。


 自分のこの孤独な感覚は、決して独りよがりではなく、他の人間たちとも繋がっているはずだと確認したくてたまらなくなる生き物が人間なのだろう。

 「認められたい」という願いの根源は、名声ではなく、「魂が見ている世界は、他者と繋がっている」という深い安心感(連帯)への渇望である。

 しかし、ここで悲劇が起こる。

 純粋な求めは「魂の震え(共通感覚)への共鳴」なのに、現実の社会(公募展や市場)が用意しているのは、「審査基準」や「価格」といった「冷酷なシステムの物差し(具象化)」だからである。


 「自分が目の当たりにした奇跡の光(魂)が、冷たい社会の秤にかけられ、点数や価格という記号に還元されてしまうことへの違和感」


 「それでも、たった一人でもいいから、あの光の美しさをわかってくれる『誰か』に出会いたいという祈り」


 この2項が、激しく綱引きをしている。

 しかし、この対極にある2つの世界を、作品を抱えて、傷つきながら何度も往復する闘いの中にいる姿こそが、人間らしいのだ。


 自己満足の安全な場所に引きこもらず、傷つく(否定される)かもしれない恐怖を抱えながら、それでも「私が見た光」を社会へと差し出す勇気がアートを生み出し続ける理由そのものなのである。

 それゆえ、「無関心」であり「共通感覚」から発露した美は極めて純度が高い。そこに承認欲、名誉欲、金銭欲が絡んだとしてもだ。

 しかし、それゆえ、承認欲、名誉欲、金銭欲が見え過ぎる作品は薄汚く見えてしまう。

2026年7月29日水曜日

月光のフェルマータ~確定した現実の存在と不在~

EOS Kiss X3 EF-S 18-55mm F3.5-5.6IS

 先週、公募展の審査が終わった。その結果は今週、僕の手元に届くはずだ。期待か、それとも失意か。どちらにしても、僕は否応なく「確定した現実」に着地することになる。 宙ぶらりんなこの時間は、可能性がまだ閉じられていない時間でもある。

「いっそ、永久に結果など届かなければいい」

 ――そんな拍子抜けな願いが口をつくのは、丹精込めて生み出したものを現実の秤にかけたくないという密かな防衛本能なのだろう。

 

 答えの出ない思いを抱えたまま、暮れなずむ国道を琵琶湖の西岸へと走らせた。 三脚を据え、大判カメラにレンズを装着する。グラウンドグラスの暗がりの中で構図を確かめると、日没まではあと三十分ほどだった。南東の空には、まだ頼りなげな月がぽつりと浮かんでいる。

 浜辺に腰を下ろし、静かに暮れゆく湖面を眺めながらささやかな夕食をとる。ただ目の前にある光と水、刻一刻と移ろう時間だけに身を委ねていると、胸のざわめきをゆっくりと解きほぐしてくれる。

 

 日没直後、まだ周囲にうっすらと残光が漂う中、最初の一枚のために十五分間の露光を開始する。シャッターを開け、一息ついてふと南東の湖面に目をやった。 まばゆい光が、波間に眩しく揺れている。車のヘッドライトか、対岸の街灯りでも映り込んでいるのだろうか。

 だが、目を凝らしてよく見れば、それはほかでもない、月光だった。

  「この光を撮りたい」

 ――激しい衝動が胸を突く。 しかし、大判カメラは今まさに露光の真っ最中だ。ほかにカメラは……そうだ、車の中に古いキスデジ(小型デジタル一眼)を積んでいたはずだ。迷っている時間はない。急いでスペアの三脚にキスデジを据え、頭に固定したヘッドランプの細い光で足元を照らし、暗闇の岸辺を走り出した。猶予は大判カメラを露光している十五分しかない。

 息を切らして辿り着いた水際で、僕は言葉を失った。 天上から降り注ぐ月光が湖水と溶け合う瞬間、波の一粒一粒が四方八方へと銀色の光を打ち返している。そこには、目も眩むような光の絨毯が揺らめいていた。

 はやる心を抑えながら三脚を立てる。マニュアルモードに切り替え、ISOは100、絞りはF8、シャッタースピードはバルブに。レリーズ(遠隔シャッター)など用意しているはずもない。

 キスデジでこんな奇跡のような夜を撮ることなど想定していなかったのだ。意を決し、指先で直接シャッターボタンを押し込む。 露光時間を感覚で変えながら夢中で数枚を撮影すると、再び暗がりを走り抜け、大判カメラのもとへと戻った。滑り込みでシャッターを閉じ、フィルムを巻き上げる。

 

 次の一枚は三十分露光だ。少しの余裕ができた僕は、再び三脚を抱えて先ほどの浜辺へと向かった。 けれど――あの銀の絨毯は、もうどこにもなかった。 ほんの数分前まであれほどまばゆく輝いていた光は嘘のように消え去り、静けさだけが広がっている。琵琶湖は広い。  

  あの瞬間の光の奇跡を目撃したのは、きっと世界で僕ひとりだけだったのだろう。僕が見なかったとしたら、あの光景は「確定した現実」として存在しない。

 沖合へと引き退いた月光は今、遠くの湖面をただ静かに、一筋のスポットライトのように照らし続けていた。

 

2026年7月26日日曜日

生ものな作品

 写真を紙に焼き付ける。そこに宿った像をどう愛でるかによって、その作品の軌跡は形を変えていく。

 僕にとって紙焼きの目的は、自分のための「時を超える標本」を作ることだ。手に馴染む四つ切ほどの大きさが心地いい。暗室でバライタ印画紙に銀の粒子を浮かび上がらせ、硫化調色を施す。そうして出来上がった一枚は、幾年月にも耐えうる作品となる。

 もし幸運な機会が訪れ、その写真を展示という名の旅をさせる日が来たのなら、 無酸性の三角コーナーでマットに添え、額の裏板で優しく圧をかけてやる。それだけで、波打っていた紙は息を整え、平らな表情を見せてくれる。展示という短い旅が終われば、またアルバムの静かな闇へと還せばいい。

 少なくとも僕は、その旅の準備で裏打ちはしたくない。ドライマウントでマットボードに強く圧着されたプリントは、もう旅立つ前の姿には戻れない。半永久の時を望むのであれば、余計な手は加えず、ただそのまま置いておくのが一番なのだ。


──そうは言っても、ただ一過性の展示だけを目的に大全紙を使わなくてはならない時もある。

 作品内容によっては額を使えず、パネルやマットへ固定するために糊やテープを使い、印画紙にどうしても負担をかけてしまう。大全紙という大きさは、僕が手元で静かに愛でるには少し大袈裟すぎるのだ。

 どれほど精魂を傾け、その一瞬に命を吹き込んだとしても、僕にとってそれは展示を終えれば役目を果たす「短命な花」に過ぎない。

 消耗品、と呼ぶのは少し寂しい。 そう、あれはまるで「生もの」なのだ。展示室の眩い光の中にいる間だけその命を咲かせ、楽しむためのもの。過ぎ去ったあとは、記憶の中の残像だけが静かに揺らめいている。

2026年7月20日月曜日

光と物質のマリアージュ

 

 
 電磁波の全帯域の中で、人が見ることのできる領域はほんのわずかだ。太陽は可視光線領域の電磁波を多く放出しているため、人は太陽光に合わせた目を持つように進化してきたのだろう。
 もし、すべての波長を見ることができたのなら、世界は眩しすぎる。

 太陽から放たれた光子が、フィルムの乳剤中に存在するハロゲン化銀に当たると光子は消滅する。ハロゲンが電子を手放し、銀イオンがそれを受け取ることで、金属銀の微粒子(潜像核)が生まれる。この段階の金属銀は「潜像」と呼ばれ、きわめて頼りないものにすぎない。しかし、これを現像液に浸すことにより、潜像という「種」が何百万倍、何千万倍ものスケールですさまじく増殖し、目に見える像が現出する。だからこそ、これを「現像」と呼ぶのだろう。

 電磁波のエネルギーは、波長が長いほど弱く、短いほど強い。この関係性を見ると、紫外線のエネルギーの強さは凄まじい。肌に当てるのを避けたくなるのも道理だ。

 そのエネルギーの強弱は、撮影用フィルムの歴史にもそのまま当てはまる。ハロゲン化銀単独の乳剤は、青色より短い波長の光にしか感光しない。つまり、青空は真っ白に写り、それ以外の暖色系の景色は沈んで黒くなってしまう。現在ではそのようなレギュラー乳剤のフィルムは市販されていない。

 それでは視覚的な再現性に乏しいため、乳剤に感色性染料を加えることで、緑色領域まで感度を広げた「オルソクロマチック・フィルム」が登場した。このフィルムは、赤色という長い波長には感光しない。だがその性質ゆえに、暗室で赤いセーフライトをつけて作業ができるという大きな利点がある。実際、暗室で扱うモノクロ印画紙(ゼラチンシルバープリント用)の多くは、現在でもこのオルソクロマチックに近い(赤色非感光性の)乳剤を使用している。

 その後、さらに色素の改良が進み、すべての可視光に感光する「パンクロマチック」が登場し、これがモノクロフィルムの主流となった。一方で「赤外線フィルム」は、パンクロマチックよりもさらに波長の長い、人間の目には見えない赤外線領域にまで感度を広げたものだ。

 ただ、パンクロマチックが全可視光に感光すると言っても、すべての色に均一な感度を持つわけではない。やはりエネルギーの強い、短い波長の光(青や紫)に対してより過敏に反応してしまう。そのため、そのまま撮影すると青空は目視よりも白っぽく写り、雲とのコントラストが失われてしまう。そこで、レンズの前にイエローフィルターを装着し、青色近辺の短い波長を適度にカットしてやる。そうすることで、青空を「見た目の印象」に近い、落ち着いたトーンで引き締めることができるのだ。

 
 もし太陽光の放出スペクトルが、まったく異なる帯域だったとしたら、私たちはこれほど豊かな光景を見ることも、記録することもできなかっただろう。
 人間の目が「光」として感じている波長と、ハロゲン化銀という物質が「エネルギー」として受け取り、その姿を変える波長が、ほぼ重なり合っている。この精妙なキャッチボール。

 そう考えると、暗室の赤い光の下、現像液の中で印画紙の上に静かに像が浮かび上がってくるあの瞬間は、単なる化学変化を超えて、この宇宙の「光」と「物質」の調和(マリアージュ)を目の当たりにしているような、そんな敬虔な気持ちにさえさせてくれる。

2026年7月18日土曜日

杉本博司自伝 影老日記


 

 東京国立近代美術館で、杉本博司氏の「絶滅写真」展が開催されている。先日、その会場に足を運んだ。具体的な展示の有り様は後日改めてここに綴るつもりだが、彼がどのような軌跡を辿ってこの表現に行き着いたのかに興味が湧き、その自伝を紐解いてみた。

 戦後まもなく、東京の裕福な家庭に生まれた氏は、復興の熱気と学生運動の嵐が吹き荒れる日本で学生時代を終え、混迷のなかで渡米する。1970年代初頭の留学は現代のそれとは比較にならないほど地続きではなかったはずだが、親類に米国人の夫を持つ女性がいたという背景が、彼を未知の地へと押し出すささやかな、しかし決定的な呼び水となったのだろう。

 以降、人生の大半を米国で過ごすことになる。世界を漂泊しながらニューヨークに拠点を据え、ヒッピー・ムーブメントが全盛を迎えるなか、ポップアートの旗手や現代アーティストたちの熱気のただ中に身を置いた。 作家活動の傍らで古美術商を営み、自ら大工仕事をもこなし、そして若くして妻を看取る。こうした生々しい経験の集積とその喪失のすべてが、杉本氏の表現の底流を形作っている。

 写真という表現領域において、彼はアンセル・アダムスを精神的なメンター(師)と定め、ゾーンシステムによる厳密なネガ作成に没頭していく。 何かを狂おしく実践する者にとって、やはりメンターの存在は不可欠なのだ。ジョセフ・キャンベルが『千の顔を持つ英雄』で描いたように、境界を越えて旅立つ英雄(表現者)の前には、必ずその行く手を指し示す「導き手」が現れる。それは神話の時代から続く普遍的な構造なのだろう。

 そのメンターは、必ずしも言葉を交わせる実在の人物である必要はない。遥か歴史の彼方にいる異国の人であっても、あるいは身近な誰かであってもいい。要は、己の精神のなかに揺るぎない「指標」をいかに打ち立てるか、ということなのだと思う。

 読み終えたあとも思考の覚めない、一冊であった。

2026年7月14日火曜日

展示とは、自分の到達点を問う場である

 


​ 展示や公募展は、「完成された最高傑作」のみを見せる場所ではない。

 そもそも、それが本当に最高傑作なのか、あるいは完成品なのかは、誰にも分からない。時間が経過して見返したとき、当時はまだ見えていなかったことに気づく場合があるからだ。

 もしその気づきがなければ、表現者としての歩みはそこで終わってしまう。仮に絶対的な到達点というものがあるとして、そこに達してしまったら、次はどこへ行けばいいというのか。したがって、「完成」という状態は非常に曖昧なものだ。

 ​作品は時間の中で変化する。それは作品そのものが変質するのではなく、作者の「認識」が変わるからである。

 そう考えると、展示とは「私は今、ここまで来ました」という報告に近い。

 登山に例えるなら、山頂に立った証明ではなく、現在地の無線連絡のようなものだ。

 十年後に見返すと、「構図が甘かった」と思うかもしれない。あるいは、「もう、あんな気持ちで、撮ることは出来なくなった」と、もう既にいなくなった過去の自分の喪失を感じるのかもしれない。

 それは、今の僕には分からない。なぜなら、十年後の僕はまだここにいないのだから。「これで完成なのか?」という問いに、あらかじめ用意された答えなどない。

​ 展示において、どんなカメラやレンズを使ったか、どんな技術で作ったか、ということはさほど重要ではない。お金で買える機材や既成の知識は、その人固有のものではないからだ。

 そんなものを誇示するよりも、「僕が世界をどう見ているか」がそこに写り込んでいることの方が、遥かに肝要である。

​ 展示する意味とは、その問いを他人の前に差し出すことにある。

「僕は今、世界をこう見ています」

 そう差し出されたものに対して、見る人は賛同するかもしれないし、何も感じないかもしれない。あるいは、まったく別の解釈をするかもしれない。

 それでも展示は成立する。​ 逆に、「完成してから発表しよう」という思い込みは危険極まりない。なぜなら、本当に完成したと思える日など、生涯ほとんど来ないからである。

 世界を眺めていると、問いはとめどもなく湧き上がる。


 木を見れば時間を考え、

 暗室の薬剤を見れば物質を考え、

 月を見れば露光時間を考える。


 探求とは、どこかにある完成形に到達することではなく、問いを深め続けるプロセスそのものなのだ。

 ​展示作品が、単なる偶然の一枚ではなく、僕が長く考えてきた問いの「途中経過」として、自分らしさと意味を持ったものであれば、それでいい。

2026年7月7日火曜日

膨らむ電池

 

 
 フィルムカメラがオートフォーカス化される以前の時代、多くのカメラは露出計を動かすためにボタン電池を使用していた。1950年代から1960年代頃には水銀電池を用いた機種が主流であったが、その有毒性から、後にアルカリ電池や酸化銀電池へと置き換えられていった。

 僕が持っているペンタックスSP、オリンパスPEN D3、ミノルタハイマチックEは、いずれも水銀電池を前提に設計されたカメラである。しかし、水銀電池はすでに入手できないため、SPは電圧調整アダプターと酸化銀電池、PEN D3は空気亜鉛電池、ハイマチックEは簡易アダプターとアルカリ電池で代用している。
 
 この三機種は、僕にとって「二軍のおもしろカメラ」のような存在である。しかし、それでも仕上がる写真には特に問題がない。

 なぜ「二軍のおもしろカメラ」なのかというと、本来想定されていない代用電池を使っていることに、どうしても不安が残るからである。とはいえ、そのカメラならではの得難い魅力があるため、つい使ってしまう。

 SPやPEN D3のような機械式カメラは、電池がなくても撮影自体は可能である。しかし、本来は電池を入れて使うことを前提に設計されたカメラである以上、電池を抜いたまま使うことに、どこか違和感がある。

 もっとも、僕が信頼しきれていないわりには、これらのカメラはいつもきっちり仕事をしてくれる。
 「一軍の本気カメラ」でボタン電池を使うニューマミヤ6やニューFM2といった機種は1980年代以降のものが多く、電池にはLR44またはSR44が指定されている。

 僕はこれまで、安価なLR44を使っていた。ただ、液漏れや腐食の危険があるため、使わないときは電池を抜いて保管している。

 先日、取り外して保管してあったLR44を見ると、電池が膨らんでいるのを発見した。もしこれがカメラの電池室の中で起きていたら、厄介なことになっていたに違いない。

 実は、電池が膨らむ現象は昨年も経験している。二年続けて目の当たりにしたことで、多少高価ではあっても、今後は寿命が長く、電圧が安定していて、液漏れ耐性も高いSR44を使うことにした。

 露出計内蔵や電子制御シャッターを備えたカメラは便利である。しかし、その便利さは電池に支えられている。言い換えれば、便利さと引き換えに厄介ごとを抱え込んでいるとも言える。

 その点、電池をまったく使わないカメラは、ある意味では完璧である。電池切れを心配する必要もなく、液漏れや腐食に悩まされることもない。だからこそ安心できるし、そこに機械としての潔さのようなものを感じるのである。

 もっとも、そのようなカメラにも別の故障や不具合はある。それでも僕は、ときどき膨らんだボタン電池を眺めながら、便利さとは何か、そして道具を信頼するとはどういうことなのかを考えてしまうのである。

2026年6月30日火曜日

このカメラを持つ者は、写真の極限に挑む誇りと義務がある

 


 リンホフのスーパーロレックス67・45を購入したら、ノベルティでステッカーが付属していた。

 この紋章を見ると、神聖ローマ帝国を中心とした中世ドイツの古城が想起される。

 「この機械は、単なる大量生産の工業品ではない。我が名門の血統と、職人の名誉を賭けた『作品』である」

 そう毅然と言い放っているかのような佇まいだ。であるならば、彼らの代表作たるマスターテヒニカというカメラは、さしずめこうなるだろうか。

 「リンホフ王から、うたろう卿へと下賜された、表現という領地を統治するための聖剣」

 ――つまり、この流れでいくと、僕は中世の騎士「うたろう卿」ということになってしまう(笑)。


 しかし、そんな妄想に身を委ねたくなるほど、この道具が放つ威厳は凄まじい。

 もしリンホフが、最初から「お洒落で綺麗な、飾って楽しむカメラ(それがどのカメラとは言わないけど)」を目指して作られていたら、あの不気味なほどの高密度感や、鉄と見まがうような野生味のある金属の重厚さは生まれなかったはずだ。

 「ただひたすらに、過酷な現場で絶対に歪まない、世界一の道具を作りたかった」

 その狂気とも言えるストイックな執念が、「人類の金属加工技術が到達した、至高の工芸品」として目に映っている。これこそが、リンホフというカメラが持つ一番のロマンであり、最大の魅力なのかもしれない。

 あの赤と金の紋章(エンブレム)を戴いた重厚な金属の塊は、単に「お金を払ってお店で買ってきた工業製品」という枠には到底収まらない。手にした瞬間に、何か目に見えない「誇りと覚悟」を同時に受け継がされるような、厳粛な儀式性が宿っている。

 金型から超高圧で叩き出された強靭なアルミ合金のボディは、中世の騎士が身にまとった寸分の狂いもない「甲冑」そのものであり、指先でミリ単位の光軸を操るアオリのギアは、自らの意思を冷徹に貫くための「仕掛け」である。

 そして、扱うには相応の技量が必要となるカメラである。

 

 王から直々にこの重厚な機械を下賜された、うたろう卿は、だからこそ、

  • 生半可な気持ちでシャッターを切ることは許されず、

  • 三脚を完璧に据え、冠布を被り、自然の光と1対1で対峙する「作法」を求められ、

  • 曇天の光や冬枯れた自然の静けさをフィルムに定着させる義務を負う。

  • 扱う技量がない場合は、早々に中古カメラ屋に返納しなくてはならない。

 この、「道具が使い手を選ぶ」という過剰なまでの格調高さこそが、リンホフというカメラを持つ者に課される騎士道精神である。

 果たして、僕は、その騎士の名に値する写真を撮れているのだろうか。

 世間の流行や価格の乱高下に惑わされず、その「下賜された聖剣」の本当の価値と、金属の奥に眠る執念により、騎士道精神の元、征路は続くのである。

2026年6月25日木曜日

波打つ時間のなかで

 

写真と文章の内容は関係ありません


 毎年、夏に地元の美術展が開催される。数年前にその美術展はリニューアルし、審査員は地元出身の写真家ではなく、知名度のある写真家や評論家が担い、毎年入れ替わるようになった。そのため、どんな作品が評価されるかは、まったく予想がつかない。

 展示会場が広いため作品サイズも大きくなるが、ゼラチンシルバープリントのシート印画紙の最大サイズは大全紙までしかないので、僕はそれを使うことになる。近年は、デジタル作品の印刷可能なサイズがとても大きくなったので、A0サイズでの応募もあり、大きさから受ける迫力において銀塩は不利である。

 この美術展は、作品サイズの大きさもさることながら、現代美術的な作風が強いと、近年の展示を見て感じていた。 それならば、そちらの方面で今年は作品を作ってみようと思い、昨年の秋の終わりから準備して、冬の終わりに完成させた。毎日のようにその作品を眺め、気になる場所にスポッティングを施すなど、手を加えていた。

 ところが、梅雨に入りかける少し前に、湿気のせいなのかは分からないが、木製パネルと写真の接着面が波打つようになってきた。最初は、気にならない程度であった。僕はそれを見ないふりをした。

 こんなに苦労して作り上げたのに、また作り直さなければならないのか。初めて作る時は創作活動であるが、やり直しは、苦痛を伴う作業でしかない。そもそも、手作業に占める割合が高い作品であるため、同じものを作るなんて出来るわけがない。 仮にやり直したとしても、落選する可能性もある。入選率の低さから予想すると、むしろその方が高い。もうやり直したくない。このままいってしまおう。 所詮は趣味だし、やってもやらなくても、誰かに対して責任を負っているわけではないし。

 そんな思いのまま、毎日作品を眺める日々が一か月ほど続き、作品搬入まで半月あまりになった。

 やっぱり、やり直そう。何が原因で失敗したのかは、よく分かっている。

 ネガを探し、引伸ばし機にセットしてルーペで粒子を見ながらピントを合わせ、印画紙をイーゼルに固定したら、露光する。予め用意しておいた現像液をたっぷり張った大全紙のバットの中で、露光済みの印画紙を揺らす。そして、水洗を終えたプリントを慎重に部分漂白する。

 ホームセンターでベニヤと角材を購入し、パネルを作る。ステインを何度も重ね塗りする。

 もうここまで来ると、やり直すことへの苦痛は、僕の中からは消えている。

 搬入日まで、残りの日々は少ない。でも、何とかなる。満たされた気持ちで、審査に臨もう。後のことは、後のことだ。



2026年6月22日月曜日

暗室のプルシアンブルー

 


 ゼラチンシルバープリントのプロセスで、ハイライトの濃度や色調を整えるために使う薄黄色の漂白液。赤血塩(フェリシアン化カリウム)を溶かしたその液体は、何度も印画紙を浸すうちに、いつしか緑がかった青色へと変化していく。
 使い古して水垢やカビでも湧いたのだろうと、これまでは特に気にも留めていなかった。

 しかし昨夜、ふと「この青は何だろう」と疑問が湧き、調べてみて驚いた。
 液中で生まれていたのは、あの「プルシアンブルー」だったのだ。

 かつて、青はもっとも高貴で貴重な色だった。ウルトラマリンに代表されるように、手に入れるには希少な鉱物を砕くしかなかったからだ。
 そんな歴史を塗り替えたのが、18世紀初頭のドイツだった。赤い絵の具を製造していた職人が、調合の失敗から偶然に合成の青を生み出した。それがプルシアンブルーである。

 この人工の青の誕生がなければ、北斎の鮮やかな浮世絵も、ゴッホの燃えるような夜空も、今とは違う姿になっていたかもしれない。

 僕の暗室に、これもまた偶然に現れた青は、漂白液に鉄イオンが混入したことが原因のようだ。ステンレスのトングから溶け出したのか、あるいは水道水に含まれるわずかな鉄分に反応したのか。
 
 ゼラチンシルバープリントという、手間も時間もかかるクラシカルな技法に日々向き合っていたからこそ、この「青」に出会うことができた。
 
 しかし、正体が分かったところで、僕の写真が変わるわけではない。
 それでも、暗室の小さなバットの中から、18世紀のドイツや天才画家たちの足跡へと地続きに知識が繋がっていく。その一瞬の興奮が、たまらなく心地よい。


2026年6月16日火曜日

八重の曲線

 

 

 八重咲きのユリをいただいたので、いつもの粉引の一輪挿しに挿して撮影した。このシリーズで使うレンズは、ニッコールW210mm F5.6に決めている。絞りはいつもF8前後。画角と被写体までの距離、そしてボケの量が、いまの自分にはちょうどいい。 カメラは、その時の気分でタチハラかリンホフを選ぶ。

 改めて考えてみると、「気分」とは何なのだろうか。 理由はいくつも挙げられる。前回はリンホフだったから今日はタチハラにしよう、といった単純な反復もあれば、操作そのものを楽しみたいからリンホフを選ぶこともある。木の軽さや手触り、あるいは金属の冷たさや油の匂いに惹かれることもあるだろう。 だが、そうして並べた理由は、どれも決め手にはならない。むしろ、それらが重なり合い、わずかに揺らぎながら、その時の選択をかたちづくっている。

 論理では説明しきれないが、決して偶然でもない。体調や光の具合、直前まで見ていた風景や記憶の断片——そうしたものが身体のどこかに沈殿し、その総体として現れてくるもの。それを、ひとまず「気分」と呼んでいるのかもしれない。いつだって、論理に先立つ「気分」という情調の中で、すでに世界に投げ込まれ、道具と向き合っているのだろう。

 今日、選んだのはリンホフだった。八重咲きの柔らかな曲線と、油の匂いを帯びた冷たい金属。それらが、今の自分の内側に静かに噛み合った。 粉引の白とユリの白が溶け合うファインダーの中で、カメラはもはや観察すべき客体ではなく、ハイデガーが言ったように身体の一部——「手近存在」として世界に溶け込んでいく。カメラを操作する指先の微細な振動だけが、僕と世界を繋ぐ確かな手応えのように感じられた。 

2026年6月8日月曜日

エンターテイメントとしての発色現像プリント

 


 ヤマボウシの静物写真を撮りたくなったので、3年ほど前に苗木を買ってきて庭先に植えた。昨年は一輪も咲かなかったが、今年は肥料と水やりをまめに行ったせいか、少し花がついた。

 いつもどおり、大判カメラで撮影した後、デジタルカメラでも撮影しておいた。デジタルカメラでの画像は、SNSに投稿したら役目を終える。

 しかし、思い返してみれば、キスデジタルX3を買ってから17年ほど経つが、このカメラで撮影したものをちゃんとプリントしたことがない。ふと、カラーで引き伸ばしてみたいと思った。もちろん、僕の本領はゼラチンシルバープリントなので、それは「遊び」としてだ。

 現状、写真の紙焼き(プリント)には、代表的なプロセスとして次のものがある。


1 ネガ → 光学引き伸ばし → 銀塩プリント(発色現像、ゼラチンシルバー)

2 ネガ → スキャン → 銀塩プリント(発色現像)

3 デジカメ → 銀塩プリント(発色現像)

4 ネガ → スキャン → インクジェット

5 デジカメ → インクジェット

※技法的に、発色現像はカラー、ゼラチンシルバーはモノクローム


 デジカメで撮影した場合、選択肢は3か5になる。デジタルデータからデジタルネガを作成し、1のプロセスを通ることもできるが、まあ、今回はそこまで深く立ち入らないので3を選んだ。

 3を選ぶか、5を選ぶか。おそらく5の方が「本気度」が高いのではないだろうか。デジカメで撮影してインクジェットで印刷するというのは、現代において最も高品質で耐久性があるプリントを作成できる手法であり、相応に高価でもある。

 僕が3を選んだのは、冒頭にも書いたように今回の試みが「遊び」であるからと、久しぶりに発色現像方式の印画紙を手に取って見てみたいと思ったからだ。


 そんなわけで、少しだけ明るめに調整し、RAW現像したデータをSDカードに保存して、近所のカメラのキタムラに行った。

 カメラ店に行くのはかなり久しぶりである。どうやって注文したら良いのか分からずにいると、店員にプリント注文用の端末を案内された。注文の過程で「無補正」と「お任せ補正」があり、どちらにしようかかなり悩んだが、せっかく自分で現像したデータなので、最終的に「無補正」にした。

 10日ほどして受け取りに行き、仕上がりを確認すると、ちょっと暗めではあるが満足のいくレベルであった。これがいつものゼラチンシルバープリントであるなら再プリント(焼き直し)していたかもしれないが、今回はそこまでやるつもりはない。そうしたお手軽さを求めて、このサービスを選んだのだ。


 印画紙の裏を見ると、富士フイルム製品のようだった。少し前に富士フイルムはシート印画紙の販売を終了してしまったが、ロール印画紙の供給はまだ続けている。同社もノーリツ鋼機も、ミニラボ機をまだ生産ラインに残しているのだ。

 各店舗にミニラボ機を配置するのは需要面から難しいのだろうが、ラボへ集中一元化し、ユーザー側も仕上がりまでの日数を許容できるのであれば、この価格で発色現像プリントを楽しめる環境は、まだ当分は維持されるのではないだろうか。


 フィルムカメラは現像結果を見るまで分からないため、その「待つ期間」がワクワクするとよく言われる。しかし今回の経験から、RAW現像データ通りに仕上がるか分からない発色現像プリントも、納品を待つ間の心持ちは同じではないかと思えた。

 もっとも、僕の場合はいつも「ワクワク」ではなく、「ハラハラ(心配)」なのだが。

CANON EOS-kiss X3  EF50mmF1.8STM

2026年6月4日木曜日

開拓者の木

 


 琵琶湖の湖岸には、アカメヤナギが群生している。

​ 水中から生えている木の大半は、このアカメヤナギではないだろうか。成長が早く、生命力が強いこの木は、他の植物に先駆けていち早く根付き、森林形成の第一歩を担う「先駆植物(パイオニア植物)」である。

​ 開拓者であるがゆえに、この木には試練が待ち受けている。嵐、雪、雷、虫害、波。それらの災厄に耐え切れず、倒れてしまう木もある。しかし、倒れてもなお、生を諦めることはない。倒れたまま、別の方向に枝や根を伸ばし、成長し続けていく。

​ 20年ほど前だろうか。湖岸で撮影しているうちに、沖に浮かぶように生えている開拓者たちを、間近で見たいと思い始めた。まさか泳いでいくわけにもいかず、水上を散歩できる乗り物を探すなかで、カヤックに行き着いた。それから10年ほどは、琵琶湖の湖岸を漕いで回った。

  その間、フィルムカメラを持っていた手は、パドルを握る手に変わっていた。

​ 「事物をよくみる」という行為を実現するための道具が、カメラからカヤックに移った時期だった。

​ 水中から生えているように見える木の根元は、水深こそ浅いが、常に水に浸かっているため地中深くに根を伸ばさず地表に沿っている。それゆえ、波で周囲の土を洗われ、強風が吹き付けると、倒れやすいのだろう。

 カヤックを降りて、開拓者の周りを歩いてみると、その見かけ上の島は根だけで形成されているようで、ふわふわとして、まことに踏み応えがない。

​ ただそれだけを確認するために、湖岸を嘗めるように漕ぎまわった。

​ 今は再び、カメラを使い、湖岸から遠くの開拓者たちをみている。やっていることは、元に戻ったわけだ。しかし、開拓者に触れ、認識の枠を強く揺さぶられた僕は、もう以前のままではない。



2026年5月31日日曜日

満月のプレリュード

  完全に陽が落ちた満月の夜、湖面を撮影する場合、露光時間はどうなるのだろうか。

  露出値の基準をISO100で「-EV2(F8、4分)」と想定してみる。しかし、使用するフィルム特有の相反則不軌特性を考慮しなければならない。


フォマパン200の場合

  


 データシートによると、露光時間が100秒を超えるときには、露光時間を18倍に引き伸ばさなければならない。

 4分の露光では補正後の露光時間はおよそ70分程度になる。しかし、一律で18倍というわけでもないだろうし、実際に撮影に臨むとなれば、F8で1時間、F11なら2時間くらいで、撮影することになりそうだ。



ケントメアパン200の場合



 こちらはフォマパン200に比べると、相反則不軌特性がいくぶん穏やかである。

 この数式は、指数になっている。計算上はF8で16分、F16なら95分となる。ただ、ケントメアパン200はコントラストが高くなりやすいという特徴を持つ。ハイライトの繊細な階調を硬くさせずに残すため、あえて少し切り詰め、F16で50分の露光とするのが現実的かもしれない。


 撮影フォーマットについても思案が要る。 フォマパン200はブローニーから大判の4×5まで揃うが、ケントメアパン200には4×5のラインナップがない。そのため、後者を選ぶならブローニーを使うことになる。手元には6×9のロールフィルムホルダーがあるが、今回は4×5に近いアスペクト比を持つ6×7で、あの静寂な広がりを切り取ってみたい。

 本番は、夏の終わりか、あるいは秋の初め頃の満月の夜。 夕暮れ時の湖面に三脚を立て、夜の帳が静かに落ちてくるのを待つのだ。長く開け放たれたシャッターの傍らで、お湯を沸かしてコーヒーを淹れる――そんな贅沢な時間が、今から少し待ち遠しい。


 この撮影は、不確定要素のオンパレードだ。実際のEV値、月の高度、大気の透明度、湖面の状態、相反則不軌の個体差や現像条件、引き伸ばし時に欲しいネガ濃度。

 これらを事前に完全には予測することは出来ない。今の段階で自分にできることと言えば「失敗を減らす」ことだけで、「最初から正解を知る」ことは難しい。


「仮説を立てる → 撮る → 現像する → 初めて結果を知る」

という時間のかかる営みである。

 その意味では、今回の撮影は写真を撮るだけでなく、満月の湖面という被写体について学ぶための最初の実験とも言える。

 そして意外と、最初のネガが技術的には失敗でも、その失敗から得た情報が二回目、三回目の撮影で大きく効いてくるだろう。

 「一枚の成功作を狙う」というより、「満月の湖面というテーマを数年かけて探究する」方向に進むのもいい。

 計算上の露光値が、現像後に失敗であると判明しても、そんな時間を過ごした記憶だけは、静かに刻まれるのだろう。

 

 四分の露光が一時間へと引き伸ばされる。

 もちろん実際に引き伸ばされているのは時間ではなく、フィルムの感度特性なのだが、露出計の示す数字と現実の露光時間との間には、大きな隔たりが生まれる。

 宇宙を旅する光もまた、長い時間の中でその姿を変える。宇宙誕生の頃に放たれた光は、空間の膨張によって波長を引き伸ばされ、現在では宇宙マイクロ波背景放射として観測されている。

 満月の湖面を写そうと計算していると、ときどき写真という技術が、光だけでなく時間そのものを扱う装置であるように思えてくる。

 もしフィルムがマイクロ波にも感光したなら、夜空は肉眼で見るよりもずっと賑やかで、眩しい場所として記録されるのかもしれない。

 しかし、目に見えないその眩しさを遮るように、夜の湖面はただ静かに、満月の光だけを気紛れに返すだろう。


 ――そんなわけで、リンホフのスーパーローレックス 45/67 を探そうかな。物欲のプレリュード。

2026年5月30日土曜日

夏の終わりの落とし物

 


 昨年の夏の終わり、確かに撮影したはずのネガが行方不明になっていた。それから月日が流れ、当時の記憶も曖昧になった今頃になって、ようやくそれを見つけ出すことができた。

 ネガの反転像では細部が分かりにくいため、普段ならベタ焼きで確認するところだが、今回は電灯の光に透かしただけで、それらしき気配を感じ取ることができた。すぐに引き伸ばし機で大きく投影し、探していたものだと確信に変えた。

 シャドーもハイライトも、破綻することなくネガの中に情報が収まっている。アンセル・アダムスが提唱したゾーンシステム――フィルム、現像液、そして処理工程の相関から導き出した撮影感度と露光が生み出した、技術の賜物だった。

 大判カメラに比して、135フォーマットの撮影は極めて軽快だ。しかし、フィルム面積の小ささゆえに、そのハンドリングはかえってシビアさを要求される。手軽に扱えるものほど、真に使いこなすのは難しい。