2025年12月29日月曜日

認識の枠とストリートフォトグラフィー


PENTAX SP Super-multi-coated Takumar 55mm f1.8

Fomapan200(EI100)  Stoeckler Two-bath Film Developer

SILVERCHROME FLEXGRADE RC Matt


 ストリートフォトグラフィーとは、まちを歩き、偶然に現れた現実を即時に撮影したもの、と定義づければよいだろう。


 先人たちの巨匠の作品には、人が写っている場合が多く、そこには人間ドラマがあり、いわゆる決定的瞬間が写し取られていた。


 二十一世紀に入り、インターネットが普及し、誰もが撮影した画像を公衆の面前に晒すことが可能になった頃から、写真を撮る人々は肖像権に対して、より神経質になっていった。それは、社会全体が「ホワイト化」していく流れとも無関係ではないだろう。


 そのような情勢の中で、人が写り込んだ写真を撮影する者は、次第に減少していった。


 新聞の三面記事を眺めていると、盗撮で逮捕という報道を頻繁に目にする。こちらにその意図がなかったとしても、いつ自分が犠牲の祭壇にまつり上げられるか分からないと思えば、人を撮ることに慎重になるのも無理はない。


 結果として、人が写り込んでいたとしても個人が特定できない状態であったり、撮影対象そのものが都市風景や物体へと移行していった。僕自身も、カメラを提げてまちを歩くときは、自然とそのような撮影スタイルになっている。



PENTAX SP Super-multi-coated Takumar 55mm f1.8

Fomapan200(EI100)  Stoeckler Two-bath Film Developer

SILVERCHROME FLEXGRADE RC Matt



 カメラという装置を用いてまちを撮影する行為は、絵画などの表現手法とは異なり、「無意識」と直結、もしくはより近い領域で作用しているのではないだろうか。


 絵画は、構図や色彩の選択など、理性が介在する余地が大きい。ジャクソン・ポロックは、理性を排除し無意識と接続するためにアクションペインティングという手法を採ったが、それは偶然性に身を委ねたというよりも、理性ではなく無意識によって制御された行為であったと言える。


 感性、悟性、理性の順に意識は深まっていくが、ストリートフォトグラフィーは、出会い頭に撮影が完了する表現であり、その多くは感性の領域で完結する。


 一方で、風景や静物に取り組む際には、構図や露光時間を吟味するなど、理性の働きが大きく関与する。そこには、写真表現の別の位相が存在している。


 ストリートフォトグラフィーは、感性の無意識領域で世界にアクセスする必要がある。そのため、以前のブログに書いたように認識の枠を揺さぶるための内面の再編成、意識的な努力と深い内省が不可欠だと改めて思う。


  哲学は、答えではなく問いである。知識ではなく道具である。と、つくづく感じる。


Nikon FG Ai Nikkor 50mmF1.8S

Fomapan200(EI100)  Stoeckler Two-bath Film Developer

SILVERCHROME FLEXGRADE RC Matt

2025年12月27日土曜日

穏やかな執着

  現代美術家・村上隆の著書『芸術闘争論』の中で、彼は鑑賞の四要素として次のものを挙げている。

① 構図

② 圧力

③ コンテクスト

④ 個性

 この中で、②の「圧力」とは何だろう、と引っかかった。色彩や描かれている事物の強さのことだろうか。

 どうもそういう意味ではなく、村上氏はそれを「執着力」や「執念」として説明している。もう少し良くするにはどうすればいいのかを毎日自問自答し、自分の作品を肯定しながら弱点を補完し続ける。その持続力こそが圧力なのだという。

 そう言えば、ある美術展の講評で、審査員が「どこまでやり切ったかは、作品を見れば分かる」と話していたことを思い出した。

 しかし、執着というものは、方向性を間違えれば、不幸の始まりではないだろうか。

 もしその執着や執念の源泉が、「人に見せて評価を得たい」「売らなければならない」「有名になりたい」「人に勝ちたい」といったエゴにあるのだとしたら、それを達成できなかったとき、精神的にも金銭的にも疲弊するだけなのではないか。

 もちろん、そうした方向性で制作せざるを得ない立場の人がいることは理解できる。村上氏がそうだとは限らないが。

 僕にとって写真は、「余暇を楽しむための活動」、いわばレジャーの一つだ。だから、それらのことは、どちらでもいい。そこには強い執着がない。突き詰めていけば、人に見せなければならないという縛りすらないし、他に何か見つかれば写真を中断することもある。

 完成したら、作品をストレージボックスにしまって終わりでもいいし、機会があれば展示してもいいし、どこかの公募展に出品してもいい。

 ここであらためて、執着や執念とは何なのかを考えてみた。

 僕の場合、向き合うべきなのは、結果から得られる価値への執着ではなく、プロセスそのものに対する精進ではないか、と思う。昨日できなかったことが今日できるようになる。それだけで嬉しいし、それは結果として、緩やかに作品の質にもつながっていく。

 何より、そうした姿勢での制作は、フロー純粋経験の状態を生み、幸福に満たされていて、そこに苦しみはない。

 そもそも、エゴへの執着が透けて見えるような作品は、鑑賞対象としても、あまり見たいとは思えない。ゴッホやゴーギャンは、執着の末にボロボロになり、最期の時を迎えたが、制作している時間だけは、そうした苦しみから解き放たれていたのだと、僕は思いたい。

 僕は、執着を燃やし尽くして何かを残すよりも、執着を手放して、穏やかに生きていたい。そして、そんな在り方がにじむ作品を作れたらいい。

 もっとも、これもまた、苦しみから逃れるための一種の執着なのかもしれないが。


2025年12月26日金曜日

捕まった光

 


PENTAX SP Super-multi-coated Takumar 35mm f2

Fomapan200(EI100)  Stoeckler Two-bath Film Developer

SILVERCHROME FLEXGRADE RC Matt

 魚を捕まえるための網に、落ち葉が捕まっていた。

 小さな魚やエビを捕まえるための網だろうか。綿のように、網の目はひどく細かい。
秋の光がその網に絡まり、乱反射している。その光に照らされ、落ち葉は静かに存在を主張していた。

 ただそれだけの光景。

 数時間後、午後の光で、もう一度この被写体を撮ろうと思い、再びこの場所を訪れた。
だが、網は片付けられていて、そこにはもうなかった。

 何もない漁港の岸壁に、落ち葉だけが残っていた。

 僕は歩きながら、M42マウントのレンズを回して外し、55mmのレンズに交換した。
次に出会うであろう被写体のために。

 

2025年12月23日火曜日

印画紙現像液の自家調合

 長らく、印画紙現像液には富士フイルムの粉末タイプ**「パピトール」**を愛用していた。使用液8リットル分で400円程度、1リットルあたりのコストは約50円と、非常に経済的であった。

 現像液は、印画紙の枚数にかかわらず、作業が終わったその日のうちに廃棄するようにしている。暗室を始めたばかりの頃は、定着液のように説明書の使用枚数に達するまで使ったこともあったが、翌日に持ち越すと液がひどく黄変し、プリントのコントラストが全く出なくなってしまった。これは、現像液の酸化が著しい証拠である。

 数年前にパピトールが生産終了となり、富士フイルムのコレクトールEや他社製品も検討したが、いずれも割高に感じた。そこで辿り着いたのが、現像液の自家調合である。パピトールはメトールとハイドロキノンを主薬とするMQタイプの現像液であったため、組成が近い処方を探した。コダックのD-72処方なども候補であったが、誰もが知るありふれた処方よりも、少し変わったものを使う方が楽しいと考えたのだ。

 印画紙現像液の処方最終的に採用したのは、**「Agfa 100」**として知られる処方である。


<印画紙現像液 Agfa 100 処方>

水 (50℃) 1500 ml

メトール 6.0 g

無水亜硫酸ナトリウム 78 g

ハイドロキノン 18.0 g

炭酸ナトリウム 150 g (1水塩の場合は175g)

臭化カリウム 6.0 g

水を加えて総量 3000 ml(使用時は1(原液):1(水)に希釈)

※保存は500CCのペットボトル6本


 臭化カリウムの増量で温黒調が増すが、効果はそれほど高くないので、僕は、標準量のまま使用している。

 僕が元々ネガフィルム用現像液を自家調合していたため、単薬はある程度常備してある。特に使用量が多い無水亜硫酸ナトリウムや炭酸ナトリウムは、写真用ではなく工業用や洗濯用の安価な製品を使用している。写真用の同薬品はなぜか割高なのだ。

 この「Agfa 100」処方を自家調合することで、現在でも使用液1リットルを約60円程度に抑えている。僕が液体濃縮タイプではなく、粉末溶解タイプにこだわるのは、コストだけでなく長期保存性の問題もある。粉末の状態であれば劣化の心配がほとんどないからである。

 フィルムや印画紙、そして薬品をいかに安定的に安価に入手し続けるかが、サステナブルな写真ライフを実現する鍵となる。カメラやレンズの性能よりも、むしろこちらの方が重要だと考えている。ちなみに、定着液については今のところ自家調合しても市販品より安くはならないため、中外写真薬品の製品を愛用している。定着液の話は、また別の機会にすることとしよう。


2025年12月21日日曜日

世界は手で触れた時に成立する

 ゼラチンシルバープリントの印画紙には、RCとバライタがある。

 どちらも光を受けて像を浮かび上がらせるが、その質感はまるで別物だ。額に入れてしまえば、ぱっと見には違いが分からないかもしれない。しかし、手に取った瞬間に伝わるものがある。RCは軽々しい感触。対してバライタには、しっとりとした深みと、紙そのものが呼吸しているような重さがある。


 もしこの世にバライタ紙というものが存在しなければ、RCでも十分に満足できただろう。だが、一度その“深さ”を知ってしまった者にとっては、RCの風合いでは物足りなくなる。

 作品を長く残したいと思うとき、自然と手が伸びるのはやはりバライタなのだ。


 けれど、バライタは手間がかかる。

 水洗、アーカイバル処理、乾燥、そして最後にフラットニング。どれも時間を要する作業だ。

 化学的な工程は理屈で理解できる。だが、乾燥と仕上げは理屈では割り切れない。湿度、気温、紙の繊維の状態──それらが微妙に絡み合い、時にこちらの意志を裏切る。まるで、紙が自分の呼吸の仕方を選んでいるように感じることもある。


 暗室用品の中に「ドライマウントプレス機」という道具がある。

 印画紙をマットボードに接着するための器具で、フラットニングにも使える。簡単に言えば、大型のアイロンのようなものだ。

 だがこの機械は高価で、重く、場所も取る。あの単純な構造にしては驚くほど値が張る。写真のために使う器具の中でも、妙に購入意欲を削がれる道具のひとつだ。


 かつて、ズボンプレッサーで代用できると聞き、試してみたことがある。自宅にあったので使ってみたが結果は散々だった。

 それ以前に、ズボンプレッサーにプリントを挟むという行為自体に、どうしても気持ちが乗らなかった。そのため、努力や工夫をする前に諦めてしまった。

 その後の二十年ほど、乾燥したバライタ印画紙をミュージアムボードに挟み、重しをのせて平らにする方法を続けてきた。

 時間はかかるが、これで実用上は問題ない。ファイルに保管でき、額装して展示しても誰にも指摘されたことはない。

 実際、美術館で見る古い名作の中にも、よく見ると波打ったプリントが少なくない。そう思えば、自分の仕上げも決して悪くないと慰められる。


 それでも、胸の奥で引っかかり続けるものがある。

 「満足できる」と「納得できる」は、似ているようで違う。

 表面が平らでも、僕の心のどこかが波打っている。印画紙の状態が心のメタファーなのか、心の状態が印画紙のメタファーなのか、そんな感覚を抱えたまま、いつの間にか二十年が過ぎていた。


 長く解決できない問題というのは、もはや努力不足ではなく、物理的な壁のようなものだと思う。

 それを超えるには、技術でも根性でもなく、ただ“正しい道具”が必要だ。

 しかし、あのドライマウントプレス機を思い浮かべるたび、やはり財布の紐は緩まない。


 そんなある日、アマゾンの画面の中で「熱転写プレス機」というものを見つけた。

 本来はTシャツなどに絵柄を転写するための機械らしい。温度も圧力も調整でき、形もドライマウントプレス機に似ている。

 レビューを眺めながら、「これでいいのではないか」と思った。

 ズボンプレッサーと違って、これは見た目からして“やる気の出る形”をしている。気分は作業の半分を決める。これは写真に限ったことではない。


 アンセル・アダムスの『THE PRINT』には「100度で3分プレス」とある。

 その記述を思い出しながら、マットボードにバライタ紙を挟み、慎重に温度を設定してスイッチを入れた。

 プレス機が静かに熱を送り込む間、わずかに立ち上る紙の匂いが暗室の空気に混ざった。

 3分後、蓋を開けると、そこにあったのは見事に伸びた一枚のプリントだった。

 光沢が均一に広がり、波打ちはどこにもない。ほんの少し、紙が誇らしげに見えた。


 紙の状態によっては、もう一度プレスを繰り返すこともある。

 あまり温度を上げるとゼラチン層が溶けてしまうので、慎重な調整が必要だ。

 その“慎重さ”こそが、作業を作業以上のものにする。

 温度計の数字を見つめながら、紙の呼吸を感じ取るように手を動かす。


 プレスを終え、冷えたプリントを光にあてる。

  ――これで、人生の問題のひとつが片づいたような気がした。


 ただ一枚の紙を平らにすること。

 それは、技術の問題であると同時に、心の平穏を取り戻す儀式でもある。

 バライタの光沢を指先で確かめながら、僕はようやく、長い時間をかけて一枚の紙と和解できたように思う。


 考えて納得したのではない。

 説明できたから解決したのでもない。

 指先で触れたから、終わった。



 

2025年12月19日金曜日

不可逆な夜

 


 秋の終わりから撮りためたフィルムを現像した。

 気温が低くなってきたので、液温調整に気を使わなくてはならない。けれども、暑い時期に液温を下げて調整するよりも、寒い時期に液温を上げて調整する方がやりやすい。冬の暗室には冬の暗室なりの、ささやかな恩恵がある。

​ 寒い時期は、フィルムベースの柔軟性が低くなり、損傷が発生することが、ごく稀にある。冷え切ったフィルムは、硬く、脆くなる。高価格帯のフィルムではそういうことは起こりにくいと思うが、愛用しているフォマのフィルムには、そのベース素材にいくらかの不満を感じることもある。120サイズに至っては、ベースが薄すぎるため、リールに通す手先にはかなりの緊張が走る。

 そうは言っても、低価格で入手できるフォマのフィルムはありがたい。なかでも「フォマ200」の特性は、僕の好みによく合致している。

​ 昨夜、秋から撮影してきたフィルム八本を一気に現像した。

 リールへの巻き取りがうまくいかなかったようで、フィルム同士が密着し、未現像の部分が残ってしまった。年に一度あるかないかのエラーだが、それは許容範囲だと思っている。完璧を求めることは、余暇の活動には似合わない。

​ 水滴防止剤に浸したフィルムを、乾燥のためにクリップで吊るす。

 滴る水滴越しにネガを透かして見ていると、ほんの数ヶ月前のことなのに、忘れかけていた記憶が鮮明に蘇ってくる。シャッターを切った瞬間の光。その日の空気の温度。風の匂い。

​ プリントしてみたいと思えるネガが、この八本の中にはいくつかあった。しかし、その多くが、実際に印画紙へ焼き付けてみれば落胆に変わることを、僕は経験から知っている。何かが理由となり、満足のいかない結果になる。場合によっては、今日の八本すべてが全滅であっても不思議ではない。

​ それでも、僕はこれを続けていく。

​ 濡れたネガが、暗がりのなかで静かに揺れている。

 その一コマ一コマには、確かに僕が立ち会った時間が刻まれている。たとえうまく撮れていなかったとしても、そこには消すことのできない「何か」がある。

​ フィルムという物質に定着された、もう二度と戻らない瞬間がある。



2025年12月16日火曜日

選ばなかったカメラを今・・・

 

 先月、ニコンFGを手に入れた。

 40年以上前に発売された、小さなフィルム一眼レフ。その存在に、今あらためて触れてみたくなった。


 発売は1982年(昭和57年)。

 当時の僕は中学一年生。欲しいカメラを夢中で探していた頃で、各メーカーに葉書を書けば、数日後には分厚いカタログが郵便受けに届いた。インターネットも比較サイトもない時代。情報とは、自分で取り寄せ、自分で比較し、自分の時間で眺めて噛みしめるものだった。


 その頃の僕にとって、FGは「入門機」のイメージが強く、候補からは外れていた。

 当時のニコンの一眼レフを、今あらためて振り返ると、こんな感じ。


入門機:EM、FG


中級機:NewFM2、FE、FE2、FA


高級機:F3シリーズ


(これはあくまで当時の僕の感覚ね。)


 キヤノン、ペンタックス、ミノルタ、オリンパス。あれこれ迷った末、最終的に選んだのは、精度の高い電子制御式シャッターを搭載したFE2だった。「電池を入れるなら、機械式にこだわる必要なんてない」と、あの頃は信じて疑わなかった。機械式シャッターのNewFM2は選択肢にすら入らなかった。


 そのFE2は、写真専門学校に進学した友人の当時最先端だったAFカメラのミノルタα7000と交換して、今は僕の手元にはない。


 当時FGを評価できなかった理由は単純だった。スペックだ。


 最高シャッタースピードは1/1000秒。シンクロは1/90秒。

 対してFE2は1/4000秒に、シンクロ1/250秒。未来を感じた。


 しかし、あの時代、日本の工業製品はすでに十分すぎる性能を備えており、「更に高いスペック」を競い始めていた。

 カメラにおいても同じで、実際には使わないような機能が積み上がっていく時代だった。


 FGは、入門機のEMの上位版。デザインは正式に「ジウジアーロ」とは表記されないが、EMやF3と同じ血筋を感じる。


 そして時は流れ、21世紀に入り、さらに四半世紀が経った現在。


 電子制御式シャッターを搭載したカメラを「クラシック」と呼ぶには抵抗があるが、それでも製造から40年以上が経ったカメラだ。

 今、スペックを求めてこの手のカメラを選ぶ理由はない。最高シャッタースピードが1/500でも困らないし、ストロボなんて最後に使ったのはいつだったか思い出せない。


 結局のところ、写真はレンズで決まる。――コンタックスの言葉が、今は当時よりずっとよく理解できる。


 ニコンのMF機としては、2004年に手に入れたNewFM2をずっと使っている。サイトを始めて間もないころに知り合ったイケガワさんと僕が使っていたコンタックスのアリアと交換した。もう21年経ったのかと思うと、時の流れは本当に容赦がない。


 そんな中で、今回手に入れたFGは、僕の手元にある唯一の電子制御式シャッター機となる。フィルム現像の現像時間のテストデータを作るためには、信頼できる精度の電子制御式シャッターが適している。


 露出モードは、絞り優先AE、プログラムAE、そしてマニュアル。

 プログラムは、どうも表現という行為と相性が悪い。だからこのカメラでは、絞り優先AEがほどよく思える。測光は中央部重点平均測光。必要なら露出補正ダイヤルを回せばいい。


 ボディ左側には、+2EV補正のボタンがある。入門者向けなのだろうが、これを適切に使いこなせた初心者は、当時すでに初心者ではなかったはずだ。



 各所にロックが設けられた操作系は、親切であり、少しばかり煩わしいが、当時の設計思想を感じる。

 巻き上げは小刻み対応。巻き心地は「グイー、グッ」とした粘りのある感触。嫌ではない。むしろ心地よい。

 ファインダーは明るく、ピントの山は掴みやすい。AF時代の入門機より確実に良い作りだ。


 ファインダー内表示はLED。F値表示はないが、それで十分だと思えるのは、年齢のせいか、それとも経験のせいか。


 シャッタスピードダイヤルの文字表示は刻印。NewFM2では印刷になっている。

 時代の変化が、ディテールに宿っている。


 シャッターボタンを押すと、ミラーショックが手のひらに伝わる。

 それが上がる瞬間か、戻る瞬間か――できれば後者であってほしい。そうでなければ手ブレが気になる。けれど、この小さなカメラにそれを求めること自体、もはや野暮だろう。


 NewFM2では内部でショックが吸収されているように感じるが、FGの素朴さも悪くない。


 かつて「選ばなかった」カメラを、こうして今になって手に入れている。


 時代が用意し、時間が熟成させ、そして自分自身の認識が変化したとき、初めて手にする機械がある。若い頃は数値と未来を追い、いまは質感と体験を選ぶ。

 FGは、そうして今、僕の手元にあり、選ばなかったことも、選んだことも、いまこうしてフィルムに光を刻んでいる。


2025年12月12日金曜日

河口の額とエポケー

 


 久しぶりに大判カメラを持ち出し、夕闇が忍び寄る薄暮の琵琶湖を撮ろうと思い、長浜へ向かった。


 午後三時には現地に着いたものの、僕が思い描いていた風景はそこにはなかった。風の強弱、空気の質感、雲の密度、湖の水位──それらの微妙な組み合わせが、僕の撮影意欲を決定づける。この日の琵琶湖は、その条件を満たしてはいなかった。大判カメラでの撮影は、早々に諦めることにした。


 ただ、このまま帰るのは惜しい。そこでニコンFGを肩に掛け、湖岸を歩いて姉川河口へ向かうことにした。柳を中心とした雑木林が防風林のように続き、その薄暗い道を抜けると、一気に視界が開けて砂浜に出た。頬に冷たい風が触れ、ようやく季節が深まりつつあることを肌で知る。


 湿度が低く、空気が澄んでいるからだろう。対岸の湖西の稜線まではっきりと見える。安曇川のあたりには低い雲がかかり、そこから雨柱が斜めに地上へ落ちていた。夏の積乱雲が落とす直線の雨とは違う。比良おろしにあおられてゆっくり傾く、その晩秋らしい雨柱を、僕はしばらく眺めた。


 夏の間に繁茂した水草は、浜辺に打ち上げられて厚く堆積し、その上を波が運んだ砂が覆っている。砂浜を歩いているはずなのに、踏みしめる足裏は布団のようにふかふかと沈み、歩みが思うように進まない。


 ところどころには、鳥に食べられた魚の骨、割れたくるみの殻、そしてペットボトルなどのゴミが漂着していた。きっと秋の終わりから吹きはじめる比良おろしに乗って、このあたりへ運ばれてきたのだろう。


 この日はさほど風が強いわけでもなかったが、姉川の河口では、琵琶湖側から逆流するように波が押し寄せていた。短い秋の陽光がその河口に反射し、薄鈍色の光をゆらゆらと揺らしている。


 その波打ち際に、小さな木製の額が落ちていた。どんな旅路を辿って、ここまで流れ着いたのだろう。僕はそれを拾い上げ、風と日差しの下でしばらく乾かした。塗料は不規則に剥がれ、ところどころ下地が覗いている。木の地肌がむき出しになった部分には、流されてきた時間がそのまま刻まれていた。


 それは、人が意図して作り出せる状態ではない。美しいのか、あるいはただ劣化したゴミにすぎないのか──どちらとも言い切れない宙ぶらりんな感情だけが胸に残る。結論を出せないまま、僕はそっとカバンにその額をしまった。


 僕は写真作品をつくるとき、工程そのものよりも「待つ時間」を大切にする。撮影、ネガ現像、引き伸ばし──どれも、一つを終えたあと次へ進むまでに、数日、ときには数週間をおく。その間に読んだ本や会った人の言葉が、じわりと自分の確信を形づくっていく。そして確信が満ちたころ、静かに作業に向かう。


 拾った額についても、同じように判断を保留し、エポケー(判断停止)の中に置いておこうと思う。エポケーは、忘れ去ることではない。問いを無意識領域に落とし込む作業である。


 いつか、この琵琶湖に洗われた額を「美しい」と思える日が来たなら、そのときは丁寧に手入れして、ふさわしい一枚の写真を入れてやりたい。

 その写真は、きっとこの額の旅路を尊ぶような一枚でなければならない。





2025年12月9日火曜日

形而上のレンズ交換

 

 18世紀のドイツの哲学者カントは、人が世界をそのまま捉えるのではなく、ある種の枠組みを通して認識していると述べた。

 その考えを借りつつ話を進めると、世界をどのように認識するかは、個々の経験や先入観、文化的背景によって影響される。つまり、僕たちは世界そのものをそのまま認識するのではなく、無意識的な枠組みによって変形されたものを認識している。深層心理と言ってもいい。

 認識は単なる外的な世界の反映ではなく、無意識的な枠に基づいて選別された結果であり、その枠に縛られるため、物事を枠からはみ出した、思いもよらない方法で認識することはできない。

 図にあるように、現象を認識の枠というフィルターを通すと、クローズアップされたり、切り捨てられたり、本来なかった物が意識の場に出現したりする。

 写真を撮る瞬間、何を「美しい」と感じるか、何にシャッターを切るかは、意識的な判断よりも無意識的な反応や感覚、違和感によって決定され、同時に作品に個性を与える。

 認識の枠が無意識領域に存在する理由は、意識的に行う行動は思考負荷が高く、瞬時に行えず、安定的に対応ができないためである。無意識的な枠組みは、日常的に効率的に反応し、行動できるようにするために存在する。

 したがって、同じような作品しか作れなくなり、自分で自分の作品に飽きてきた場合は、認識の枠を変えなくてはならない。それには、無意識領域の再編成が必要となる。具体的手法としては、フロー体験、文芸作品の貪欲な吸収、旅などの新たな環境体験により、認識の枠を揺さぶる必要がある。新たな視点を得ることで、世界を見る「無意識領域のレンズ」が変わり、作品に変化が現れる。

 新たな「無意識領域のレンズ」を手に入れるための、最も手軽で簡便な方法は、カメラ屋に行き、欲しいレンズを手に入れることかもしれない。物理的に世界を見るレンズを変えれば、その体験は無意識領域に落とし込まれ、世界を見るための「無意識領域のレンズ」にも影響を与えることができるかもしれない。

 写真を志す人たちは、それを経験的に知っているため、そうしたロジックがなくても、無意識にカメラ屋でレンズを探しているのだろう。もはや夢遊病者のように。

 しかし、この方法は手軽で簡単であるだけに、得られる効果は限定的であり、深い変化をもたらすものではない。物理的なレンズを変えても、それだけでは根本的な認識の枠を大きく揺さぶることは難しい。だからこそ、認識の枠を変えるためには、内面の再編成が必要だと感じている。そしてそのためには、意識的な努力と深い内省が不可欠だと改めて思う。

 



2025年12月5日金曜日

「tokyo-photo.net」の残照

 

 かつて、銀塩写真を支えた技術情報サイトがあった。tokyo-photo.net。それは、銀塩ウェットプロセスによる写真制作にまつわるありとあらゆる知識が集う、さながら聖地のような場所であった。今思い返せば、あれは間違いなく一つの大きなムーブメントであった。

 その中で、定期的に開催されていた特別な企画がある。名を「グループプリントエクスチェンジ」という。極めてシンプルに言えば、暗室に籠る同好の士たちが、互いの作品を交換し合うという催しである。

 暗室作業に悦びを見出す人々は、基本的に全国津々浦々に散らばっていると言っていい。東京や大阪のような大都市圏ならともかく、僕の住む岐阜県において、自宅暗室を楽しむ人間が一体何人いるだろうか。10人もいないのではないか、とさえ思う。

 かくも孤立しがちな銀塩ウェットプロセス界隈において、誰かの生のプリントを手に取り、その息遣いを感じる機会は皆無に等しい。美術館で展示されている銀塩プリントも、確かに美しい。しかし、それを生み出した作家本人と対話することは難しい。その点、このエクスチェンジの相手は、同じ技法で格闘する同志である。彼らの作品を仔細に観察することで、どんな暗室環境で、どのような工程を経て完成したのかを、手に取るように知ることができる。

 それは、単なる技術への好奇心を超え、自分の作品へと直接的に応用が効く、かけがえのない学びの機会であった。

 僕は tokyo-photo.net のプリントエクスチェンジに何回も参加し、幹事を何度も務めたこともある。しかし、初回から20年ほどの時が流れ、かつてのメンバーは写真から離れたり、デジタルやSNSの世界へ移ったりと、それぞれの場所へと散り散りになってしまった。

 そんな中で、今月、当時のメンバーの一人と再びプリントエクスチェンジを行う運びとなった。昨夜、僕はかつてのように、魂を込めてバライタ印画紙にプリントを焼き付けた。印画紙が水中で揺れる度に、遠い日の記憶が蘇るようだった。

 年末、あるいは年始。彼の暗室から生まれたプリントが、僕の手元に届くのを心から待ち望んでいる。 


2025年12月1日月曜日

偶然の雨、必然の光

 

 平日の午後にぽっかりと空いた時間を抱えて、僕は大阪へと向かった。今回の旅に、特別な地図や明確な目的地はない。「何となく」その時間を過ごせれば、それで良かった。一泊二日という時間は、自分に都市の空気を取り込むには案外短い。

 街のスナップを撮るつもりで、愛用のEOS Kiss IIIにEF50mm F1.8 STMを装着し、敢えてフィルムを装填しないまま、バッグに無造作に押し込んだ。このカメラは、資産としての価値はほぼないけれど、実用には全く不足がない。だからこそ、緩衝材など使わず、雑に放り込んで運べるのがいい。そんな乱雑な扱いで、あちこちの国を旅したにもかかわらず、不思議と壊れもせず、目立った傷もない。

 早めにホテルにチェックインし、借りた自転車に跨る。首からはフィルム未装填のEOS Kiss IIIを提げ、コートの内側に隠すようにして、南船場にある大阪写真会館を目指した。堺筋をひたすら北へ。車道には、自転車レーンの青い路面標示が鮮やかに敷かれているのに気付く。変速機のない簡易な自転車で、旅先を自分の脚で漕ぎ進むとき、この「まち」がより肌理細やかに、身近なものとして僕には感じられる。

 大阪写真会館に到着し、自転車に鍵をかける。

 古き良き中古カメラ店が複数入居するその建物で、僕は「矢倉カメラ」の扉を開いた。数年ぶりの訪問だが、店内の佇まいは一切変わっていない。商品が混沌とした魅力を放って陳列される光景は圧巻で、あらゆる時代の機種、レンズがここに集結しているのではないかと思わせる量だ。目当ての品がある場合は店員さんに告げれば出してもらえるが、この雑然とした棚を眺めているうちに、思わぬ“出会い”がある。ここでは、客自身の探す力量が問われている気がする。

 この日、僕が「見てみたかった」のは、世界最小の機械式一眼レフのペンタックスMXか、あるいは「プログラムニコン」の愛称を持つニコンFGだった。どちらも、小型軽量で、フィルム交換式フォーカルプレーンシャッター機という共通点を持つ。

 そもそも「見たかった」という意識、そしてEOS Kiss IIIが「フィルム未装填」であるという事実は、この日の僕の心理状態を如実に示唆していた。つまり、「もし気に入った状態のものがあれば、連れて帰りたい」という、漠然とした期待だ。しかし、中古の宿命で、在庫があるか、あったとしても状態が好ましいか、それは分からない。その不確かな旅の記録を、もしものために請け負うのが、バッグの中のEOS Kiss IIIだった。

 ショーケースを覗き込むと、ニコンFGのシルバーが2台、静かに重ねて置かれているのに気づいた。ペンタックスMXは見当たらない。もしかしたら大量のカメラに埋もれていたのかもしれないが、それ以上探す気にはなれなかった。

 2台のFGを見せてもらい、僕はその歴史と対話する。電池を入れ、何度もシャッターを切り、露出計の動作も確認する。細かな汚れは、持ち帰ってから自分で丁寧に拭き取ればいい。大きな凹みや傷はない。しかし、二台とも三脚穴の周囲には、三脚に取り付ける際にできたスリ傷が付いていた。それは、このカメラが誰かの手で、間違いなく使われてきたという、確かな歴史の証しだ。三脚を使うということは記念写真だろうか。はたまた花火でも撮ったのだろうか?

 2000円ほどの価格差があったが、気になる場所の傷が少なかった安い方を選んだ。

 軽量なカメラには、やはり軽量なレンズを合わせたい。プログラム露出を搭載したFGには、AI Nikkor 50mm F1.8Sが最良の相棒だろう。このレンズも2本の在庫があった。実店舗で中古を購入する最大の価値は、同じ個体を比較できるという体験だ。絞りとピントリングをそれぞれ操作してみる。一本はスカスカと軽いトルク。もう一本は、しっかりとグリスが残っていそうな、ねっとりとしたトルクを感じた。後者には、純正のラバーフードも付属していた。光学系はどちらも問題ないようだ。価格差は1000円ほど高かったが、僕は後者を選んだ。

 サービスでキャップや電池、そしてこの時代のニコンのストラップも探して付けてもらい、フィルムを装填したFGをエアキャップに優しく包んでもらい、店を出た。

 秋の終わりの短い陽光が、街を淡く照らしている。ISO100のフィルムでも、この開放値のレンズならば、電飾に彩られた都市を撮るには十分だ。ホテルに自転車を返し、EOS Kiss IIIを部屋に置いて、僕は真新しい相棒と街を歩き始めた。

 11月の終わりだというのに、もう街はクリスマスの電飾に彩られている。とっくに閉店時刻を過ぎた銀行のガラスには、街の人工的な光が長く映り込み、足早に過ぎていく人々の影が、ときおりその光を遮ってゆく。

 僕は、その様をひたすら絞り開放で撮影していく。

 絞り開放で撮影するということは、開放測光の一眼レフにとって、見たままの像がフィルムに露光されるということだ。シャッタースピードは15分の1秒くらいになっているだろうか。手ブレの心配など、今はどうでもいい。今、この時、この場所で、目の前の光景を深く観察し、シャッターを切ることだけに、全神経を注ぐのだ。

 その刹那、ポケットの中でスマートフォンが微かに振動したような気がした。確認してみると、雨雲が急速に近づいている。通り雨だが、かなり強い雨になりそうだ。雨の予報ではなかったため、傘はホテルに置いてきてしまった。

 ほどなくして、大粒の雨が降り始めたので、僕は慌てて歩道橋の屋根の下で雨宿りする。すぐ近くにいた路上ミュージシャンと、急な天候の変化について、少し会話を交わしているうちに、雨は嘘のように止んでいった。

 雨上がりの夜の町は、光に満ち溢れている。先ほどの銀行のガラスには水滴が残り、路面には大きな水たまりが、もう一つの光の都市を映し出す。雨が降る前よりも、ずっと多くの光が溢れていた。

 平日の帰宅ラッシュの時間が終わるころには、僕はフィルムを一本撮り終えることができた。

 ニコンFGは、学生時代、写真部の先輩が愛用していたカメラだ。今回縁のなかったペンタックスMXは、恩師が使っていた。この時代のカメラは、今でも中古カメラ店で、「ちゃんと動くもの」として入手できる。当時のカメラは魅力的なものが多く、友人たちがそれぞれの機種を使っていた。そのため、カメラを見れば、それを愛用していた誰かを思い出さずにはいられない。

 あれから随分と年月が流れ、様々な人が僕の人生を通り過ぎていった。

 今回、再びカメラと出会ったように、いつかまた、あの人たちとも出会うことがあるのだろうか。それは、中古カメラ店のように足繁く通えば叶う、というほど簡単なことではない。だからこそ、僕は今、この手にあるカメラで、移ろいゆく光の刹那を焼き付け続けていたいと思う。

 撮ることは失われたものへ手を伸ばす行為なのだろうか。すべてが未整理のまま、しかし確かに存在している。